花束みたいな恋をした
ずっと見たかったからやっと見れてすっきり。書いておきたいのは、忘れたくないから。私はこんなふうに見たよって言いたい人がいるから。
普段は邦画を見ないくせに、何故かこれをチョイスして先に見てた。いや、何故かではない。有村架純が可愛いからだろ。その上、菅田将暉に似てるねって言われたこと、ちょっと嬉しかったからだろう。と、難癖の一つや二つつけておきたい。私だってずっと楽しみにしてたんだぞ。
好きなものがことごとく一緒の人に会ったら運命だと思ってしまうよな。朝まで会話の続く人は居心地がいいに決まっているよな。そんな人との生活は非日常でキラキラしてて、永遠を考えるのが怖くなるくらい、永遠を感じてしまうだろうな。
日常に忙殺されていく麦くんの目がどんどん死んでいって、さすが菅田将暉といった感じ。大好きな彼女は大切な彼女に変わって、大切な彼女を一番に考えた結果が責任を取ることで、責任を取ることはやりたくないことを「これは責任だ」と言い聞かせて、感情を殺すことなのだと発展していく。彼女のためだから。これで彼女を幸せにできるから。
一方の彼女は結構今を生きていて、フリーターでお金がなくても彼の才能を信じていたし、今日も楽しい2人の時間が流れることが1番の幸せで、そのために自分も働けるし、自分が楽しいものを追い続けていた。
男の人が彼女を幸せにしたいと考えるように、女の人も彼を幸せにしたいと思っている。そのやり方が女の人の方が自由なのは、男の人が幸せにする方法は既に世の中で大体決まっているから。
生きるって責任だ、ってさ。おっしゃるとおりだ。仕事、結婚、子育て。このすべてが大人になることだとしたら、大人になると責任や義務が支配していって、あらゆるものに恋する気持ちはすり減ってなくなる。愛に変わるといえば聞こえは良いけど、愛って責任なのかという答えは虚しい。
恋愛映画を見ると、私はちゃんと恋愛ができなかった人なのかもしれないなと常々思う。好きだと言われて好きになったのかもしれない。相手の好きなものや、自分が相手に求める好きな仕草なんて分からなかったし、自分の趣味を人に伝えるなんてできないくらい自信がなかったから。相手の好きなものを味見してみたり、興味がなければお互いの心の中で留めたりして、その線の引き方は冷静であまり不便に思っていなかったけど、この映画を見て、好きなものを共有できないと寂しい気もするなと少し思った。結局、どちらかがその好きなものから引いていくと余計に寂しくなるし、好きなものを蔑ろにされたら感情がまた減っていくだろうしどちらが良いのかはあんまりよくわからないけれど。
大好きな街がたくさん出ていて親近感がある。私にもあの多摩川の道は大好きなデートコースの思い出。ceroのお店もクロノスタシスも大切な思い出。そのどれもが別の場所で繰り広げられていて、思い出すのは友人のことだったりして。いわゆるサブカル文化が全部詰まっていた。
結構残酷なプロポーズ2回もされるのしんどい。別れたくないから結婚する。恋人みたいにはなれないけど、パートナーとしてはきっとうまくいく、なんて、結婚する前から何か諦めらって言われているみたい。大好きでいてほしいでしょ、無理だとしてもさ。大好きでいる努力は続けてほしいでしょう。なぜあんなにグズグズ言うんだよって思ったけど、多分私はあの場で別れたくない、結婚しよう、といってしまう側だと思うし、その場合の言葉は「幸せにしてほしいとは言わない」になってしまいそうであまりに自分が可哀想な想像しかできない。絹ちゃんは恋を大事にするからちゃんと覚悟が決まっているところが良かった。自分を大切にできる人は不必要に誰かの時間を奪ったりしないのだな。
ちょっと理屈っぽい感想。本当はさ、話し合えたら良いのにね。好きな人とはたくさん話して、なんでも言えて、嫌なところまで一緒に落ちていけたら、諦めじゃなくて相手への理解で一緒にいられるのに。好きって気持ちは変なところで身を引いたり、ワガママになってしまってうまくコントロールできないものだなぁ。友達みたいな元恋人になれた時が一番楽しそうって皮肉すぎるけど、きっとあるあるなんだろうな。
恋愛プロセスが見えちゃうし、大体自分の恋愛にも当てはまってしまうこともあるだろうから、共感性の高そうな映画でした。
言葉選びが本当に坂元さんて感じで、改めて最高なお人だな。