何のラベルも貼られていない、私が私である時間

pypy
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何だかんだで、夫と同居開始してから予定以外で私が数日間家を空けたのは初めてかもしれない。

夫との共同生活は、マイナス同士の奇跡的な掛け算で上手くいっているので不満は無い。人間関係にも恵まれている。仕事はたまに「解せぬ」となる事はあれど、折り合いをつけられる範囲に収まっているので問題ない。精神疾患や発達障害に関しても、これといって懸念点はない状態。

これだけ書くと、私は充実した生活を送っているのかもしれない。瞬間風速でのストレスはあれど、長期間に渡って負の感情が維持されることは滅多にない平和な生活だと思う。

でも「じゃあその生活は疲れも溜まらないか?」と聞かれたら、私は「いいえ」と答える。

現実世界で対面する交流も、画面越しにインターネットの友人知人と行う交流も、人と人同士の接触であるのは同じ。

どれだけ交友関係に恵まれていても、どれだけ生活が充実ししていても、交友関係を維持するには気遣いが不可欠だと私は思っている。

気遣いにも種類がある。

「この人に私がこういう事をしたら喜んでくれるかな」みたいなものがあれば、逆に「この人からはこう思われてるからコレは注意しよう」みたいなものもある。

普段から仲良くしているAさんと苦手意識を感じるBさんから同じ事を言われても受け止め方が違うのと同じで、身も蓋もない話だけれども、気遣いは誰からされるかによって受け止め方が変わる。

言ってしまえば、相手に対してどんなイメージを抱いているかのラベリングによって話は変わる。

自分が誰かにラベリングしているように、第三者も自分にラベリングして生きている。これは無意識だろうが、そうでなかろうが関係ない。

そして、人間として誰かと共存する以上は「相手に対して自分はこうありたい」というラベリングと、「あの人から私はこう思われている」というラベリングからは切っても切り離せない縁がある。

どうしても第三者と共存する生活を選ぶ以上、気遣いという言葉でこれらのラベリングを意識して生きていかなければいけない。

ぶっちゃけ、疲れる。

キャラ作りという訳ではないが、それに近いイメージで誰かに対して気遣いや気配りをし続けるのは、私に向いていない。息が詰まる。

もともと私は、スポーツ選手で言うなら「ラブプレー上等!勝てば官軍負ければ賊軍、結果は出すからそれでいいだろう?」とワンマンプレーを繰り広げる問題児みたいな人間だった。

問題児として生きるのは楽だった。人の顔色を伺うことなく、自分のやりたいことだけをやる生活は呼吸しやすい日々だっただろう。

もちろん、それでは色々と不都合が起きると理解したから今の私に収まっている。でも、残念なことにそれを「理解」することはできても「納得」することは今でも出来ていない。

必要性は理解しているから行う対応であれど、自分の中に落とし所を見つけられず納得出来ていないことを続けるのは疲れる。

それはどれだけ愛しい相手だろうが、親しく接している相手だろうが関係ない。「私」に貼られているラベルも「誰か」に貼られているラベルも、本当は興味が無い。

好きにやらせろよと思いながら生きている。

それでも第三者と共存するためには、ラベリングを意識せざる得ない。とはいえ疲れるものは付かれる。見えない真綿でジワジワと首を絞められるように、自覚できないストレスが蓄積されていく。

これの厄介なところは、無意識無自覚でストレスや疲れが溜まるところ。それがある日突然、プッツンと糸が切れて濁流のように押し寄せる。

そうなってしまったら、おしまい。

そうなってしまわないように、ガス抜きをした方がいい。

だから私は、年に1回くらいのペースで放浪している。

Twitterに投稿はするけれども、それはただの生存報告でしかない。

放浪では、私が行きたいところに私の行きたいタイミングで私の気の向くままに動く。宿が事前に決まってたら良い方なレベルのほぼノープランでふらふらする。

誰かにとっての私を気にせず、私にとっての誰かを気にせず、好きなように過ごす。やりたい事しかやらない。それがどれだけ前からやりたいと思ってても、いざ当日に気分が乗らなかったらやらない。

1年に1回くらいの頻度で相当珍しい度合いで自分を甘やかして、自分の機嫌を取って、乾いた心に潤いを与えて復元していく。

そのくらい自由気ままな時間を過ごすのは楽しい。誰も私にラベリングを貼ってない時間はキラキラしている。

勝手に期待されるのも、それに応えようとする自分にも疲れるものは疲れる。そんな日常生活から自分を切り離して、素の状態で居られる時間。

そんな72時間を過ごしてきた。