「たぶん、トレーナーになること、いや、ポニーレースクラブを持つのが良いでしょうね。それはきっとやることにしましょう。」
ふん、と意気籠った勢いで、少し恥ずかしい鼻息が出てしまい、思わず私は口元を覆った。
私のパレードはこれで一区切り。トゥインクル・シリーズでのキャリアを終えたので、合宿を抜け出して久しぶりに大阪でお父さんとディナー。
父は忙しい人ですから、こういうハレの日は、きまって空港の一角で過ごすことになります。贅沢は承知ですが、習慣というのは恐ろしいもので、こうしていたほうが寧ろリラックスできる。
『でもそれよりも、父さんは思うことがあってね』
なんでしょう、と呼びかけながら、指を立てて続きを促す。
『どうだったかな、トゥインクル・シリーズ。』
『それから、あのチームで良かったかな。』
あのチーム。グループ・ピクシス。私の所属していたチームは、単なる選手同士の互助会や、一人のトレーナーを軸にしたものではなく、明らかな信念を問われるチームだった。
らしんばん座の名を冠するそのチームは、ウマ娘の未来を求めるチーム。
速さより、強さより、明日を。
燃えるような野心の人、眩しいほどのアイドル、思索こそを楽しむ者。どれも一筋縄ではいかない人物。学生スポーツの選手でもなく、国民的スポーツのアスリートでもなく、あの場所には「人間」しかいなかった。砂の向こうに、芝の向こうに、茨の向こうに、「自分にしかできないことがある」と信じて疑わない人たち。
だから、なおのこと思うのです。
「はいっ、とってもよかったです、あのチームで、あのレースをしました。よかったです。」
私は平々凡々、と言うのは嘘だ。「ウマ娘がもとめられる場所」に生まれたと思っている。
父はとある航空関係会社の役員だ。母はまだまだ数少ない女性パイロット。そんな環境に生まれた私には目指す場所がふんわりとあった。
空に携わること。
ただ、だんだんと夢は外れていくもの。別にAP〈オートパイロット〉があるわけじゃない。信念は曲がらない。でも夢は自由自在。何か興味があればすぐに飛びつくのが私でした。だから教養の一つ程度のことにとことんハマって抜け出せなくなるのです。
「とってもとっても、不思議な経験でした。」
「私はなぜ、あんなことを成し遂げられたのでしょう」
レースとは、そんな手習い事に近いものでした。ただ、その航路をもっとまっすぐに歩め、と誰かに手を引かれた。そんな気がしているのもまた、事実なのです。
名門校をお受験をしたのも気まぐれ、家に近いからと春木駿海を選んだのも気まぐれ。それで吹奏楽部に入って……多少好き勝手をして。本当にただただ今を楽しんでいたのです。多少運動神経には自信があったけど、それをどうこうなんて思いもしなかったと思います。
ただ、今となっては。小学校4年生のころの運動会。みんなでバスに乗ったり走ったりして向かうのが伝統になっていたのが、ちょっといいグラウンドがある隣町の学校、大阪駿麗。
その対校運動会で能天気な私はどうも迷子になったらしく、高校生の競技に混じってしまった、あの日の経験が始まりなのでしょう。
発泡スチロールの壁を飛び越えて走るレースが伝統……らしく、対校運動会としてはホームの長居と、その伝統の持ち主らしい春木とで、それはそれはプライドのかかった熱いレースなんだとか。遊歩道のはしっこの、3人が並んで走るのがやっとの昔のグラウンドの名残を借りて一周を2800m。
練習を積まなければけがをしてしまう。そもそも小学生には無理がある。両方の学園の人気者と実力者が集まるお祭りで、何よりも「伝統の一戦」だった。
本当にどこか抜けていて能天気だったので、そのまま「これ担当だったかな」とのほほんと出て、のほほんと帰ってきてしまったのです。
止めようにも、周囲が何かが変だと気が付いたころには、すでに600mを過ぎて、走力で敵うはずのない高校生相手に先頭に立ったころ。当の私も、何かが変だとは思いながら、そのままやり切ってしまったわけです。1着でした。
担任の先生が腰を抜かして、一日中、ことあるごとに「えーっ」っとつぶやいていたのを思い出します。
その顛末として、飾り付け用のリボンと油性ペンと液体のりで急造した「平成30年 南海盃 優勝」のアクセサリーを受け取りながら、お騒がせしましたと顔を真っ赤にしながらお立ち台に登らされたわけです。
ただ、それ以上のことはなかったはずなのでした。その帰り道に、形がそっくりで、でもずっとしっかりした作りのそれを拾った。それくらいだったのです。
「優勝 平成36年 南海盃」
未来からの落とし物、あまりにも不思議でした。
そしてなによりも、すでに陛下から「次代へ」というお言葉があった以上は、よほどのことがない限り、その年は平成の世ではないでしょう。
でも、いたずらにしてはあまりにも「本物」っぽすぎたのです。手のひらに収まるリボンは、小さいけれど、それは絹の紬で間違いなく、あまりに丁寧に刺繍がされていて。「優勝レイ」のそれと、何ら変わらないように思えたわけです。
交番から「ウマ娘なんだから、おまじないにとっておけ」と言われて以来、持ち物に結んでいます。捨てるのには、忍びなかったから。
吹奏楽に熱中した私は、吹奏楽をするためにトレセン学園を受験しました。もちろん芸術専攻で。2日目の表現試験の後の面談で「少しでも多くの適正を見出したいから、今からでも走行試験を」と声をかけられて、何の気なしに向かった場所を今でも覚えています。
多少なりともレースに憧れがある人が、「憧れの隣で走るつもりで」と全力で青い芝を駆け抜けて行き、夢破れての受験をする人が「ここからでも這い上がれる」とばかりに執念で砂を巻き上げる場所に、あの日と同じように、私ものほほんと放り出されてしまったのです。
〈おまけの子達ね、来てくれてありがと〉
〈結果は教えられないけど、「入学した時に」どういうカリキュラムが向いているか調べるために、ちょっと走り方を知ってそうな人に声をかけたんだ〉
リラックスして、ついでに腕試し程度に。そんな言葉が続いた気がします。
リラックスと言ってものびやかに、頑張らないと。浮かんだ曲目は「威風堂々」でした。ポン、ポン、ポン、と気持ちよく足を延ばして、とにかく自分らしく。スネアドラムのように砂を踏みしめると、自然と向かい風が強くなってくる。向かい風なんて普通は御免なのに、体が浮き上がるような、すがすがしい気持ちが私を満たして⸺。
よくわからなかったけど、あの感覚はいったい何なのか。
そういう驚きに圧倒されていた私の顔を見て、試験官は頷きました。
合格通知には面談をしたいと言う追伸の紙があって、向かえばいくつかの地方トレセンから選手コース、本科でのオファーがあったから真剣に考えると良い、と言われたのです。母は喜び、父は目を閉じました。本当によく考えた方が良い、と。
その日からの夢は、奇妙でした。森の不整然な道を四苦八苦しながら……そう言いながらも自分でも見たことのないスピードで、飛ぶように走りながら、その中にやけに整然と生えている粗末な灌木、振り返って言えば竹柵を超えて進む夢。
気がつけば、気がつけば見たことのない場所で賞賛を浴びる夢。他のウマ娘に担がれて、観客に流されて、だんじりのやりまわしのように空中でぐるぐる回されて大騒ぎをする夢。
その夢の最後には、決まって私は東京に送り出されるのです。バスの運転手やら、空港職員やらのウマ娘に手を引かれ、「架け橋になって」と。行先は羽田にしろ成田にしろ、意図は明らかでした。大井ではないのです。誰かが、何かが、私を府中に誘ったのです。
1週間も同じ夢を見れば、そんな気にもなってくるわけです。
「はいっ、夢のまた夢ですけれど」
「走る」と私が口にしたときは、母は喜びましたが。
「障害レース、できたら一度は出てみたいなって」
それが、本気でアスリートを目指すというよりは、むしろ府中にこだわってでも、今やりたいことをやるという宣言に代わる。
そういう、いつも通りの無軌道な結論だとわかると母は呆然と、父は頭を抱えました。そういうことじゃないらしかった。無難に、夢をつかんでほしかったのでしょう。
ただ面談の先生と、隣に佇んでいた駿川さんは〈本格化の具合によってはトゥインクル・シリーズに移れますし、お子さんの様子ならどこでも走れるかもしれません〉〈音楽科での入学になりますが、私たちが全力で支えます〉と言い添えてなだめるばかりでした。
「そもそも吹奏楽をやりたいから選んだのに、今更どこかに行く方が変でしょ」と言葉を補いましたが、父は苦笑いでした。
歌い、踊る。それがマーチング。
独創的なコスチュームから伝統の海空軍服まで。
大いに、それはそれは大いに楽しんだ。
うっすらと憧れを残した私は、やはり制服を着て、伝統的なことをするのが好きだったように思います。母のように、情熱的に、溌剌に動いて、音色を一つ一つ当てながら、音符に表現の羽根をつけてあげるのです。
同床異夢などもってのほかで、こぞって一つの夢を追う。頼られれば心が温かくなるし、音のばらつきに理解と教訓をと思えども、その原因にいろいろなものが重なってなかなかまとまらないことも含めて面白さだと思っていました。
曲想を、パレード全体のテーマを必死に考えて、追究して、磨いていって……。
マーチングには日本語も英語もありません。歌詞のある曲目を演じることはできても、それを言葉の形で届けることはできません。
音楽だけじゃ百分の一も伝わらないとして、あれだけ絢爛かつ繊細に踊っても、やっぱり伝わるのは百分の一だった。
その逆に、マーチングである理由を考えれば、規律・協調・友愛・歴史・勇敢……。この形でしか通じないものもある。
やっぱり音楽が大好きで、マーチングが大好きで、音を独り占めできる空が、少しうらやましい。
そうやって、楽譜とコマ割りの中で自分を飛び跳ねさせることを覚えた私は、代わりに何かを忘れていました。
何かの催し物でコースに立つまで、あの夢を思い出せずにいたのです。
感謝祭の端の余興の一つと言いましょうか。本科以外で選抜リレーをするという顛末があったのです。ライブ運営、レース運営、メカニクス、サブトレーナーと言い習わされるスポーツ管理、果てに進学。巨大部門の芸術専攻も放送、デジタル技術、服飾、デザインなどと分かれて、人生に一度の歓声を浴びようという微笑ましいものです。
音楽科のアンカーとしてバトンを受けたとき、後にいたのが後のチームメイトでした。そうです。まだ進学科に居たあの女です。
ダートコースの周回。相手は派手に咳き込んでいる割に引き離せない。食いついてきました。ふと、今日は気まぐれに、ミサンガがわりに足首にあのリボンを巻いていたのを思い出しました。子どもの頃の武勇伝を思うと、力が湧きます。
後ろを突き放し、メカニクスを追い抜きます。まだ咳の音がするので、その時練習していた「ワシントン・ポスト」を頭の中に思い浮かべて集中しました。
(主題は堂々とゆったりとしたストライドで)
(そしたら落ち着いてルーティンワークへ)
(もっともっと、音楽に没頭して、クラリネットやピッコロの繊細な音に合わせて)
(そう、もっと足を回そう、細やかな音まで拾っていこう、スキップしたくなるような気分で)
後ろを突き放し、ライブ運営を追い抜きます。それでも咳の音がするので、リズムに合わせて思い切り地面を踏み抜きます。
(繰り返してきた旋律の吹き込み方を今一度変えて、クライマックスだ)
(息をついて、一回体を起こして弾みをつけて)
不思議と、ざわざわと高まるギャラリーの声が、遠いエンジンの耳鳴りのようにも、航空管制に混ざるホワイトノイズにも感じられて。
後ろを突き放し、ついにサブトレーナーたちに迫ったところで、ざんねん。音楽科は2位、進学科があれで3着に持ち込んだのが恐ろしかったです。
〈あんたら、それもうデビューしなさいよ〉
〈特にその……やけに元気がいい方〉「はい、イズミスカイゲートと申します」
〈そうそのイズミス……って方〉
〈走りたがってるよ、もう一人のアンタ〉
引退選手を抱えながらも出遅れた音楽科を挽回したのはマーチング一筋の聞いたこともない黒鹿毛。
最下位から一人で順位を上げてきたのは400mトラックにしか興味がない栃栗毛のステイヤー。
じわ、じわと、プレリュードの静かなドラムロールのように歓声が盛り上がっては静まり返る。とっても静かな賞賛がその場を包んでいて、サポートのアンカーはいつまでも私たちを睨んで「まいったな」とつぶやいていたのを、いつまでも記憶しています。
その年の夏、私は"Make Debut!"を演奏することをやめて、歌うことにしました。
「不思議だったんです」「自分で決めたのですが、自分で決めた気はしませんでした」
「『夢』を信じたなんて、言ってしまえば余計混乱するだけだと思いまして、ずっと黙っていたのです」
「他の人たちは、何か目指すものがあって、やりたいことがあって、願いを思ってあの場所に居たと思います」
私の長い長い独白の後、父は小さく頷いた。
『アスリートと言うのは』
『素質の上に、熱中するための意志がないとなれないからね』
『だから父さんは、”そのレースの先に何が残るのかを考えてほしい”と言った気がする』
父はゆっくりと、昔の言葉を確かめるように続けた。
『父さんも母さんも、勝っても負けても応援してきた。だから言っただろう、“勝っても負けても、自分が選手でなくなっても、自分を応援し続けなさい、そういうチームを探しなさい”って。』
そんなことは……最初は実は考えてなくて。
昔と同じように、ほんとは、考えなしなだけで。ぼんやりとした夢だけを手繰っていた。
……そうとは、こんな空気ではさすがに言えなくて。
「あの場所は、その通りの場所でしたけど、それ以上の場所でした。」
「きっと、お父さんも知っている通り」
スマートフォンを光らせて、机の上へ。100年前にでも作ったまま更新してないような、簡素なレイアウトのホームページ。チームの広報ページだ。
〈……、レースを通してかつてのウマ娘の職能の伝統を伝えるため、運輸・通信・情報に携わる様々な企業の協賛のもと、進学・就業支援を含めた手厚いサポートのもと、学生スポーツとしての……、〉
『父さんがやったわけじゃないよ、昔からウマ娘はヒト・モノ・コトを運ぶ重要な役割があった、だから業界で応援するってこと』
『それに、それ以上だった。そう思うよ、父さんは。』
「ん?」
『君は、君だけの才能で輝いたじゃないか。』『君は、君なりに楽しんだ。』
だから、難しいことはおしまい。あと1年は夢を考えられる。
そういって、お父さんはグラスを持ちました。
「うん、うんっ、はいっ!」
私はただ、ただ今を、幸せに過ごしています。
私は、チームメイトとは違います。
私の夢は、あのチームに入ったころから決まっていたわけじゃありません。
私のように特別な家庭に生まれたユメミノ先輩は、鉄道王の遺産を象徴する動物園を、その身を削って支援する。そういう避けられない宿命の中で精いっぱいに「楽しいことはわかりあえる」と笑っていて。
私のように特別な感性を持っていたミスカトニアンは、レースもライブもそっちのけにしながらも、「ウマ娘であるという体験」を、物語や舞台を通して遍く人に届けようとしていた。
私のように予想外の立ち上がり方を見せたデュオモンテは、「トゥインクル・シリーズ」と正面からぶつかりながら、自分の理想である「ヒトに尽くし、ヒトとともに走ること」という理想をスポーツに落とし込んでいた。
引け目は、あったと思います。
ユメミノ先輩の様には深みをもっては笑えないし。
ミスカトニアンの舞台で心が折れちゃいそうになるほど、あの子の表現力はすごい。
デュオモンテは、ついぞライバルとしてかなわなかったし、未来を生きすぎている。
でも、あの中にいたからこそ、「夢の中」のことを誰にも語らなくても頑張れたと思います。
空に携わる仕事……は、それはそれでなってみたいけど。
あの人たちと同じように、自分を生きたい。それ以上に。
あの人たちと同じように、誰かへと繋がる糸を、守れる仕事になりたい。
走り方を教えることも、思いの丈を伝えることも、音楽で共鳴することも、空の中の見えない糸を守ることも。
全部はできないけれど、一つでも立派にできたなら、きっとチームメイトも誇りに思ってくれる。
糸巻き器〈ディスタフ〉に、レイのレプリカがわりに買ったリボンを巻き付けて、ポケットにしまった。
夢を見ました。
そこは、「ハルキトレーニングセンター学園」でもなければ、関西空港でもなかったのです。
大阪南港野鳥園の展望台。
視線の先に見えたのは、木製のリング。
なんとなく、何をさせたいのかがわかって、いつのまにか手元にあった双眼鏡で覗いて、人影を探します。
深夜のそこにも、無数の人がいるので、兎角時間をかけました。
5分、10分、30分。
でも、一瞬だった気もします。
とん、と探し人の手が肩に触れた気がして、振り向きました。
私より少し小さい背丈の、成人しているようにも見えるウマ娘です。
ふと、身体が包まれます。
パリッとした制服は、母のようなパイロットの服装というよりは、私の好んでいたマーチングの服装に少し似ている気がしました。
スカイブルーと、真新しい洗濯のりと、太陽のような匂いでしばらく包んだあと、彼女は静かに窓の向こうに注意を促しました。
「その前に、ありがとうございました。」
すかさず、言葉を差し込みます。
」そんな敬語なんて間柄じゃないと思いますよ「
」お互いに紛れもなくわたしだし、紛れもなくあなたです「
「とにかく、素敵な空の旅でした。」
彼女はしばらくの間微笑みかえして、そして一息をついて口を開いた。
」夢みたいだった「
「だから夢洲〈ここ〉なんですか。」
私としては真面目な質問でしたが、クスリと笑うだけでした。
「そうですねぇ」
「平成37年はどんな音楽なんでしょう、ここよりスウィングしてるとかー、踊ってるとかー」
」同じこと繰り返してないかなぁ「
「ああ、確かに、でもこう、踊りにもスウィングしない踊りみたいなのもあるじゃないですか」
」それはそうかもしれないけど、でも似たことだよねぇ「
「はいっ!グルーヴが効いてる!」
」大してかわらないよ、こっちと「
「ああわかりました!こぶしがきいてる」
」ミスカちゃん「
一瞬、真夏の友人である冷房が邪魔に思えるほど、とても、とても冷たく感じました。
恐る恐る、問いただします。夜景の向こうに、白く伸びる筋を指して。
「……あの橋は」
」誰かへと繋がる糸「
そしてもう一度、今度は近くの、賑々しい人工島……の端を指して聞きます。
「あのトンネルは」
」誰かへと繋がる糸「
沈黙の間に、彼女はキャビンアテンダントの笑顔でまた右を指差した。
夢洲は、真夜中にしては、少しだけ明るい。
みんな夢から帰るべき時間だが、あいにくその帰り道が途切れている。
大阪メトロ中央線は、この日この刻限、夢洲とコスモスクエアの間で運休を余儀なくされていた。
今、彼女は目の前にいる。
幾度となく、幾度となく、私を東京へと送り届けてくれた制服姿のウマ娘。
糸が切れている今、敢えてそんな夢洲で落ち合うことを求めてきたこと。
夜景がこんなにもきれいな場所で、何かを急かすことなく私に夜景観察を促していること。
CAさんは、やっぱり嘘つきだ。
「今度はそっちに行って」と口にすると、人差し指が私の口元に近づいてきました。
」“誰かへと繋がる糸”を、守るのでしょう?「
今まで曖昧だった将来の夢、明日のこと。
考えたくなかったこと。
それがはらり、はらはらと崩れて、少しずつ言葉になる。
「そのために何をしたいか、この時期になっても悩んでるのに」
「あなたと会ったせいで、もっとめちゃくちゃになってます」
「将来、あした、何になったとしても」
「守れないものがあるじゃないですか」
」よくばりさんだ「
「はい……はいっ、よくばりさんです」
息を大きく吐くと、ヒュルヒュルと、悲しげなフルートが吐き出されました。
」ふたりはひとりなんだから「
」おたがい頑張るなら 守れるものが増えるよ「
「……言いたくないです」
「あのことば、言いたくないです、言わせるのずるいです、いやです」
」言わなくていいよ「
」ほら「
」あっち向いてホイ って「
いやだよ、と。
5秒、10秒、20秒と黙りこくってみました。
横目に時計をみやっても一向に22時10分には届きません。
秒針がくるくる回っても、分針がどこへもゆきません。
途切れたのは40分にすぎないのに、この場所はこのシーンから次のシーンにはどうしても動かないようなのです。
」あの糸も すぐにつながるよ だから同じように「
」つながりつづける 今より静かに でも確かに「
」リボン、大切にもっててね「
「さいあくですよ」
「なんで、なんでちゃんと言ってくれないんですか、失礼じゃないですか」
「……いいです……知りません、お姉さんのことなんて」
「私も、言いませんから」
観念して、私は目を閉ざしました。
よいしょ、という声。
それに続けて、ポンと頭にあの人の手が触れて、私の手の中に何かを押し込む感触がしました。
関西万博、夢の塊は少しずつ解け始めているようです。
まあるいボーラーハットを外して、制帽に付け替えて。
鏡の代わりに、窓の反射で具合を見ようとしましたが、夜景が眩しくて、よくわかりませんでした。
夏合宿から離れる寄り道として、久しぶりに大阪でお父さんとディナーをして、そして実家で一泊した、その朝でした。
何も言わずに制帽を持っていても、お父さんは驚きもしなかったあたり、きっと私に何かがあることは知っていたのだと思います。
少し意地悪だなと、思うのは罪でしょうか?
伊丹から空路で福島、いわきに戻ります。
ただその前に、リボンと刺繍糸を買い足すために、近くの百円ショップに寄り道、ETA〈とうちゃく〉は少しだけ遅れます。
手作りのレプリカなら、自分で一つ増やしても、罰は当たらないと思いますから。