「どうもこうも、落ち着かないですね。」
最低限の格式がつくシティホテルのレストランも、「戦いの日」にはやはり雑踏の感が出てくる。
大量の客を早朝から捌く、さしずめ野戦給食状態になっているバイキングルームに何とか体裁と秩序とを保とうとする館内放送。
流れてくる『愛のあいさつ』も、市民ランナーがガチャガチャと無遠慮にカトラリーを鳴らす音にかき消されて少しばかりかわいそうだ。
そんな中、落ち着かないと切り出してきた張本人は、落ち着かないとは言ったくせに、山盛りのスクランブルエッグを皿に積んでやってきた。
コイツのやりたいことは、ちょっとばかりわからない。トレーニングは緻密なくせに、いざという肝心要、最後のコンディショニングだけは、とかく自由だ。
「油とか禁忌中の禁忌だろうが、バターの匂いだけで死にそうだ」
とぼけて、肩を竦めて見る。
……いや、おかしいな。
こいつは、デュオモンテはそういう人種だ。99%の努力を、1%の感性で成就させる人間だ。
あのころから何も変わっちゃいない。
初のハーフマラソンの5分前にニンジンサイダーを1リットル飲み干していたアホのどこがロジカルなものか。
その日、肝心の俺はハイペースを誘導するように飛ばしたはいいが、他に先導を譲ろうとペースを下げたとたんに、アドレナリンで体調がわからなくなっていたのか、糸が切れるように脱水症状で倒れた。
自分の救護で1分も時間を使いながら、ごぼう抜きしていったバカの破天荒さを見ているしかなかった。まさに陸上メディアで「デュオモンテ」が全国区になった瞬間だった。
U-20というくくりでなければ絶対に出会わなかった年下に、”別格”だと思わされた瞬間。
こちらがそう思っても、肝心のテメーはやはりこう、「カタい」。
「友情に女神がほほ笑んだ」とネットで話題にされても「ケガをダシにして勝ったようで互いに不愉快だからやめてくれ」とピシャリだった。
あれ以来、いくらアイツに比肩するライバルが現れても、どこにヤローが行こうとも、「デュオモンテが閉口するくらいで一人前だ」などと思うようになった。
「アイツは大成しますよ、あんなわけわかんないことしながら勝つようじゃなんて言ったらいいか。」
「ヘタしたらどんな大学生より怖い。」
「理論家」で「哲学者」というのはありえない。どちらかを選ぶなら断然「哲学者」だ。
この度の混乱でやっと、世間もその「正体」をジワリと感じたのだろう。
散々メディアではクレバーなように、あるいは泥臭さ一辺倒に演出された、店先に飾られる花なんかではない。
やはりこいつは雑草のままだ。どこから生えてくるかわかったものではない。トリックスターのようにキラキラも、叩き上げというほど頭に血が上っているわけでもない。
ふと、コップの水面に自分の顔が映る。“ニマニマ”としか表現しようのない笑みは、さすがに気心知れた相手とは言え失礼なほどだった。
「うれしいんですか、センパイ。」
「そうに決まってるだろ。」
ひときわ、カトラリーの雑踏が大きくなった気がして、慌てて付け加える。
「あーほら、スクランブルエッグ冷めたら余計くどくなるぞ」
冷めたスクランブルエッグはそっちでしょ、冷めてもオイシイケド。
要領のつかめないことを言ってきては、さっくりと箸で割って、ご飯に乗せて、掻き込む。
「チョットしつこくて、食べた気になるけど、案外いくらでもイケる。」
ニンジンの炒め物も載せて、掻き込む。
「それにしても三鷹から都庁までで前泊っておかしいだろ、電車で来いよ……策略か?」
「でもコンパスガイドという女は策略の朝食にうれしそうに付き合っている。」
「それ以上に何もないわ。」
はいはい。
「嫌われただろ、トゥインクルシリーズの面々に。俺は嫌いだぞ、そのどこかサイコ染みた性格」
「失恋しましたよぉ。そりゃあ。ド派手に。」
「ざまあないわ。ついでに言うと多分それは恋ですらないぞ。」
「うん、そうですね。先輩。」
「でも、ランニングデートっていうじゃないですか、終わらない並走のこと。」
「あれね、ほとほと迷惑な奴な。」
「それと同じようなもんですよ、離れたら寂しい。」
「そっかぁ。」
「……そうだよな。」
自分のつけているジャージに目を落とす。
赤色に燃える先進の火に染められる。白い刺繡はシンプルに「NIHON SEIDEN」。
「俺も、大学卒業は悲しまれたし、自分もすげぇさみしかったわ。」
「聖英のグリーンが跡形もない……って、色にこだわるあたり、意外と勝負服的なものに憧れてたりしたんだなって思い返したり。」
「似合うと思うんですけどね、茜色。」
「かっこよかったですよ、パリ。開会式くらいしか地上波には出なかったけど。」
「お前さ…その日本ジャージを阻止しに来てるってこと気が付いてるか?」
「まあ、それはそれですけど」
「まずは、復帰戦なんで、目立ちたいですよね」
3/2 6:00。
東京都庁から徒歩10分。
今日も、「世界最大都市・東京」は世界中から人を集めた。今日はとりわけ、「死ぬほど走りたい」偏執な人たちを。
JMCグレード1、ワールドマラソンメジャーズ第1戦。東京マラソン。
「シドニー」が加わり七つ星体制で始まる「最高峰のマラソン年次大会」。
そろそろいいだろう、係に断りを入れると、取りに行くまでもなく、バナナを持たせてくれた。 椅子を引いて、またひと際大きくなったフォークの乱舞から退散する。
ロビーで、少しだけ気色ばんだ声色が聞こえる。
「あのっ」
「アップに入るとお昼までおっかないんで、その前に一つだけ聞かせてください、センパイ。」
「誇りに思ってくれますか。」
目を瞑る。何かを考えているわけではないが、本当にこの答えでいいのだろうか。
いや……少しは、楽しませてあげよう。
「少なくとも、URAの緑のジャージは死ぬほどに合わねぇし」
「““勝負服”姿のデュオモンテが隣にいると、燃える」
「んで、ついでに日本静電にいられたならやりにくかったんでせいせいした。正月とか。」
「……愛してますよ。」
「は?」
「アスファルト。だから、みんなに好きになってもらいます。」
「あーもうやだやだこのサイコ女」
「愛をこめて。」
バックグラウンド・ミュージックだけが、ロビーにはっきりと聞こえる。
「『愛のあいさつ』なので。」
「……大嫌いだわ。」
外の空気を吸う。気持ちのいいものではない。環境性能がどれだけよくなろうとも、排ガスの味はする。
それと同時に、格式に固められたシティホテルのキンキンと張りつめた空気がほどける。
今になって、金属のカチャカチャとした音を、デュオモンテと会話する時にはさして意識していなかったことに気が付いた。
「そういえば、耳カバーが苦手なくせに、ああいう金属音に敏感なの、お互い様だったな」
こっそりと覗いた模擬レース。一人だけその場でジャンプしたかのように肩を震わせたシーンを思い出す。
「お互い、それぞれに古い人間だよな、青いというよりは。」
「……アイツが見たいっつーなら、いくらでも見せてやるわ。日の丸ジャージ。」
通りがかりの小さなウマ娘が、デュオモンテのサインが小さく入った色紙をかざすので、隣に寄せて書く。
言いふらすなよ、と言いつつも、最後に茶目っ気を加える。
「あのお姉さんはやっぱり40キロ過ぎてからがかっこいいからさ、先に家の人に頼んで日本橋に行っとくと良いよ」
「一番かっこいい瞬間に、俺が追い抜く。」
「パスちゃんおねーさん、がんぱってくださいっ!」
たどたどしい挨拶に、しっかりとはにかむ。
「お帰り、デュオモンテ。」