2023/10/21(土)
大阪ステーションシティシネマにて
テナントさんがジェシカ・ジョーンズでキルグレイヴを演じた時のインタビュー記事で「どんな役でも善か悪かで2極化せずに、グレーの部分を探して演じている」と言っていたけど『善き人』はまさにそういう話だと思う。
以下『善き人』の感想
『善き人』のあらすじ
リベラルな考えを持つ文学教授のジョン・ハルダーは盲目で老衰した母親を熱心に見舞い、空虚な妻と3人の子供の面倒を見る。彼の生活の背景には、特に感情が高ぶった瞬間に、想像上のバンド演奏の音が流れるという、珍しい神経症的なチックがある以外は、特に変わったところはない。しかし、自らの体験の結果として、老人の安楽死について論じた本を書いたり、ドイツ文学文化の繊細さについて講義したりすることで、ジョンは意図せずしてナチ党にとって非常に望ましい人材となりナチス政権上層部の地位に流れ着いてしまう。
本題
ヴィゴの『善き人』を見たあともそうだったけど、この作品ちょっと気まずいし感想に困る。
『ソフィーの選択』のような愛の物語でもなければ『帰ってきたヒトラー』のようなブラックコメディでもないし、『ペルシャン・レッスン』のようなカタルシスも感じない。
そのうえ主人公のジョンは家庭不和でかつての教え子と不倫したのちに再婚し、ナチスに懐疑的ではあったけど生活の為に形だけのつもりで入党してしまった結果ユダヤ人の親友を助けられずで言うほど『善き人』か?という決して好感は持てない人物。
だけどナチスが悪であることは勿論として、そのナチスに入党したジョンのことを悪人だと真正面から批判することが出来る人間はどれだけいるだろう。綺麗事言うのは簡単で、自分だって口だけならキャプテン・アメリカのように国を守りジャスパー・マスケリンのようにナチスに立ち向かうことが出来る。でも協力することで自身と家族に安定した生活が保証され"エリート"の仲間入りができるとしたら?一歩間違えれば、明日は我が身という状況下であるとしたら?
『帰ってきたヒトラー』ではヒトラーが自分を支持するターゲットに定めるのはネオナチや極右政党のような「いかにもヒトラーに心酔してそうな」人たちではなく、流されやすいからという理由で普通の一般市民に向けて訴えていた。当時も気付かぬ内に危険な方へ引っ張られて、いつの間にか狂気の渦中にいる"善き人"たちがたくさんいただろう。脚本家のC・P・テイラーも『GOOD』のあとがきに『第三帝国の残虐行為の殆どは犯罪者や精神病による単純な陰謀ではなく、人間社会の複雑さの結果として引き起こされた』と記載している。
悪に加担してしまうことを分かっていても尚、善人でもあろうとした"グレー"の人間であるジョンの立場は誰しもが想像し易く、人間のウィークポイントに焦点を当てられることで観る人に居心地を悪くさせ、気まずくさせる。デイヴィッド・テナント自身が"グレー"であることを意識をして客席に向かって問いかけてくるのだから尚更。
そういう意味で凄く感想に困る舞台だった。少なくとも友達と見に行ったあと喫茶店で語り合うタイプでは無い。
そしてそれまで"グレー"だったジョンを決定的にしたのは2幕のSSの制服に腕を通すシーンだった。ジョンはツイードのジャケットとサスペンダーを脱ぎ捨て、アンが差し出すがままに服を着替えていく。SSの制服に身を包んだジョンはもう"グレー"な人間ではない。モーリスにクリスタル・ナハトを正当化する姿には冷たさが漂う。彼の虚栄心と独我論的な性格はお世辞に屈し、地位が固まったことでついに加害者の立場に足を踏み入れてしまったのだ。
『善き人』は音楽が頻繁に使われているがミュージカルではなく、シンフォニックな曲たちはジョンの長い独り言の単調さを補う役割を担っている。だから必要に応じてコミカルにもなるし皮肉にもなったりするのだが、それも彼の頭の中で流れてる幻聴でしかない。しかし最後に流れるのは収容所に送り込まれてきたユダヤ人のオーケストラによるシューベルトの行進曲。彼の妄想でしか流れないはずの曲が現実でユダヤ人オーケストラの演奏によって流れている。精神の逃げ場所だったはずの音楽が、ジョンが望んでいない「現実」を突き付けてくるという皮肉な最後だった。