ソフトウェア開発界のAdoになりたい

たふみ
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最近Adoさんの曲にハマっている。もともと好きでよく聞いていたが、お正月に帰省したときの紅白歌合戦で見た「唱」が衝撃的すぎて頭から離れなくて、ずっと聞いてる。

(どうでもいい話だが、こういうときに芸能人やアーティストに敬称をつけるべきか否かずっと迷ってる。たぶんこの迷いに人生かけてる。)

YouTubeとかもひたすら再生していたら歌い方指南の動画なども見るようになり、だんだんそのすごさが技術の面でわかってきた。

Adoさんの1番の特徴はなにより音域の広さ、ミックスボイスの美しさ、独特の力強くへたしたら喉ぶっ壊れそうな歌い方、こぶしの入れ方などの表現の技術の高さだろう。1人でやってるとはとても思えない。

それに輪をかけて、私が好きなのがその使い分けの表現力とセンスなんだということにも気がついた。いくら技術的がすごくともその使い分けが使い分けるべきタイミングでなければ真価は決して発揮されない。そしてその組み合わせはときにとても負担の高いものだと思うが、それを決して臆せず自分の技術力への信頼に裏付けされた表現の幅。

私は1台のMacからここに足を踏み入れたとき以来、なんとなくデザインとエンジニアリングを行ったり来たりしていた。物理サーバーの管理からモーションのブランディングまで、本当にいろいろやったと思う。

それなのに、デザインとエンジニアリングが不可分である (よく言われるプロダクトのインターフェースデザインに限らずもっと広い意味で、エンジニアリングも本来の工学の範囲において) ということはずっとなんとなく認識はあったが、という言葉の重みと真価、自分でここでやっていくという覚悟をできたのは本当につい最近の話だ。

それらは私にとってそれぞれ1つ1つの技術でしかなかった。それらはすべて「表現」に投影するとグラデーションでしかないという結論にたどり着くのに何年もかかってしまった。自分の中で、ようやく持っている技術の使い方やタイミングを身体性を持って把握していくことができてきたのかもしれない。

私の技術の抽象層にはほとんどは私に起がない。その点において、私は私の技術、言い換えれば思考を信頼している。ただそれと、表層の技術が必要なときに可用かどうかは別の話であり、私はこっちはまったく信頼できていない。この迷いが表現の幅の拡張を阻んでいるような気もする。

私はAdoさんのようなものづくりがしたいのだと思う。

Adoさんの名前は、狂言のシテとアド (脇役) から取っているらしい。私も、私のものづくりはそうあってほしい。デザインもエンジニアリングも世界は変えられないと思っている。ものはアドなのであるし、そうあってほしい。

@qsf
中央揃え恐怖症のオンスクリーンプロダクトデザイナー qsf.jp