とって出し

さと
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とって出しの日記。……のつもりだったんだけど、書き途中で寝てしまったので嘘のタイトルになった。

 

5年ぶりくらいに近所を散歩した。

梅が咲いていた。カワヅザクラっぽい早咲きの桜もぼちぼち咲いていた。

音楽を聴くと退屈な感じがしたので、朗読を聴いて歩いた。小さい頃から読み聞かせのように耳から情報を聴くのが得意ではないのだが、歩きながらのコンテンツとしてはちょうどよい塩梅だった。もしかして、私が読み聞かせ苦手だったのは耳以外が暇だったから? それは少しあるかも。

歩くのが嫌い→脳と耳が暇だから

読み聞かせが苦手→脳と目と手足が暇だから

これを合体させることで全てをそれなりに稼働させている状態にできるってことかも。脳は並行処理でそれなりに使用してくれたため、「歩くのだる……」にリソースが振られずよかった。

はじめて耳から文章を読むことにまともに取り組めたため、最近「Amazon オーディブル」を使っている人を見かけるのはこういうことかあ、と納得した。散歩中・電車通勤中などに「音楽より情報量の多い何か」を聴きたい人にはうってつけなのだな。ながら音楽だとCPU10%くらいしか専有しないのだが、読み聞かせだと場面を想像するから30%くらい専有してくれて心地よい。

と感心しながら『人間失格』『桜の森の満開の下』を聴いて歩いていた。恥ずかしながら未読だったので、(こんな話だったのか)と思いながら。

最後に『檸檬』を聴くことにした。この作品は思い入れがある。中学生の頃、発展教材として国語の授業でやったときにはとんと理解できなかった作品である。

高校生になり、同じく梶井基次郎作の『櫻の樹の下には』を読み、(気色悪いけど、濾された体液のような美しさもあるな……)と感じた。国語の教材が急に面白くなった時期と重なっており、なんとなくだけど「感覚的に読む」を身に着けたんだろうなと。

それならば、と、電子辞書の青空文庫で『檸檬』を引っ張り出して授業中に読んでみたら、かつて読んだときとは全く違う言葉の鮮やかさに圧倒された。同じ作品か? と驚いたのを覚えている。授業中に読むな。

そして今回、改めて耳で『檸檬』を読んで、目で読むより鮮やかさがないことに気づく。私は文字情報から言葉の鮮やかさを得ていたのだな。「すずしい」と耳で聞くより、「涼しい」と文字で読んだ方が「涼しさ」のクオリアを想起できるというか……。これは認知特性と訓練の結果だと思うから、色々な人がいると思う。

というか、私は『檸檬』を耳で聴きながら、音を聞き取って脳内で書き起こしをして、その文面を愛でていた。

だから無事書き起こしできた「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。」の文面は爽やかに好きだったし、書き起こしに失敗した「漢文で習った『売柑者之言』の中に書いてあった『鼻を撲つ』という言葉が断れぎれに浮かんで来る。」はピンとこなかった。「鼻を打つ」かな? と思っていたが違ったね。よりガツンとくる感じだ。

私は『檸檬』の言葉選びが好きだったけれど、「文字」に大きく魅せられていたのだなあ、と改めて。そういう意味では、きっと当時の市井の人々とは全然違う感触で『檸檬』を読んでいるのだなあ。

オーディブル、いいなと思ったけれど、音声で聞く以上、「文字」の感触が伝わらないのが欠点だから、使う分野を選べばよいのだろう。ビジネス書とかは確かに相性がよさそうだ。すごく好きな方の物語作品を初見で、とかは向かない気がする。少なくとも私は文字表現として愛でることがあるから。

一方で、欠落した文字情報を音声で補える部分もあるんだろうなと思う。朗読劇とかはきっとそうだよね。でも読み手の色が強くなりすぎるとそれは「解釈」になってしまうし、難しい。もしかしてまほやくのメインストボイス未実装ってそういうことですか?(嫌味)

いろんな認知特性の人がいるし、文字媒体を受け取るのが難しい方もいるから、文章表現を読み上げボイスではなく人が読んでいるのを聴けるのはいいことだなあと思った。

ジムでの運動では目が暇になるのでオーディブルはあんまり相性良くなさそう(筋トレならいいかも)だけど、散歩が続けられたら会員になっても………………いや無理です。今回も半分くらい嫌だ~~て思いながら歩いたし……。今日は筋肉痛だし……。

@quale
私のクオリア