『セッション』字幕版

さと
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観た。

私は映像作品を観始めるハードルが高く(まあ本もだけど)、レビューだけ見てふ~んそんな感じの作品なのね、と思って作品自体に触れず終えてしまうことがままあるのだが、それってダメだな……と学んだ。

レビューにある感想、実際に観たあとの私自身の感覚に全然当てはまらなかった。一部近い感想の方もいらっしゃったが。

レビューでは「狂気」と表現している方が多い二人だけれど、なんか、あんまりそういう類には思えなかったんだよな。どこまでも音楽の「探究」であると感じて……。それが行き過ぎているから「狂気」と捉えられたのかもしれないけど、やり方の頭のおかしさが強調されているだけで、「狂気」とされてしまっているものって、よく聴く音楽家の方々が当たり前みたいにして持っているものなんじゃないかなと感じた。私は音楽作品や演奏からそう感じることもあるなあ~という身近さがあった。

私は「狂気」でなく「探究」と受け取ったから、その探究を武装している「度の過ぎ方」を混ぜて「狂気」としたくなかった。

しかし、最後のフェスの演奏シーンはめちゃめちゃに良かったね。ドラムソロとブラスの掛け合いのところ、至極。1小節ごとの「ドラムvs指揮・ブラス」のバトル、ギリギリかつ華麗に打ち返し続けるバレーの試合を見ているようだった。

フィッチャーの指導方法が最悪であることは作中でも語られている。ちゃんと作中で言ってくれるありがたさね(なくても「ダメだろ」という視点のもと描かれていることは感じられたが)。ニーマンのあの種の覚醒(と言わせてもらうけど……)がフィッチャーとの関係があって生まれたものであるとしても私は肯定したくないし、「最近はコンプラコンプラうるさいよね~」という感想に至る人のことはきしょいなと思う。

それでも、この作品のテーマが「音楽」だったからだと思うんだけど、最後のあの瞬間、音楽が"そこ"に至った瞬間、「良かった」とどうしようもなく思ってしまった。音楽というものに無形の良さを見すぎなのだろうが、私にとって「言葉じゃなく、否応なしに納得させられるもの」の筆頭が音楽の良さだったりするので、敗北した。あの瞬間、二人の(どちらかというとフィッチャーの指導方法の)ことを否定できなくなった。その後はちゃんと否定できるんですけど、あの瞬間、ね。

フィッチャーはニーマンがパワハラ指導の密告者だと本気で思っていたのかどうかが私はちゃんと読み取れなかったのですが、初見では本気、再考時は建前、ときて、今日、やっぱり本気だったらいいなと思い直した。

最後までフィッチャーの想定通り、というのは構造としてええんか? という気もするし、私はなによりあの、演奏中にシンバルが倒れたときに慌てて元に戻したフィッチャーのカットが死ぬほど好きだったので。駆け寄ったフィッチャーに打算がなかったと思いたい。

憎しみと怒り、最低と最悪のるつぼの中で最高の音楽を掴み取った瞬間の美しさ。肯定したくはないのだけど、音楽は本当に最高で……。人を虜にさせる芸術・芸能・エンタメってこうだから、内部で傷つく人たちがたくさん生まれてしまうのだよな、という虚しさも大いに感じた。

@quale
私のクオリア