2024年春

sana
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TW/自死にまつわる文章があります。

梅の花の写真

少し前から私はずっと怒っている。たまにクィアの中にも、コミュニティの権利に対して興味がなく「政治的」であることを忌避する人たちがいるけど、先人たちが口うるさく声を上げてきてくれたおかげで、今の状況があることを忘れないでほしいと常々思う。その権利を享受し、彼らが整えてくれた道を歩いておきながら、今、未来のためにうるさく声を上げている人たちことを鬱陶しがるのは傲慢じゃないかな。繊細だの気にしすぎだの、自分にそこまで差別されてないだの、別に命に危険が及ぶわけじゃないだの。そんなふうに考えられるのなら、あなたは幸せですね。って感じだし、そう思える余裕があるなら、もうちょい広く社会をみたらどうですかって思ってしまう。批判を向ける相手を間違えるな?今声を上げている人たちじゃなくて、その差別を容認している社会に一緒に怒れってくれればいいのに。まあわからない、そういう人も、そういう態度をとることで自分を守ろうとしているのかもしれない。

正直、非当事者で、こういう声をあげている人をうるさく思うのはまあわかるとして、当事者でそういう声を抑え込もうとしてくる人を見るほうが私は腹が立って仕方がない。これを書いているのも、そういう人に遭遇して、それから怒りが収まらないから文章にしているのだけども。

こんな社会で生きていけないと絶望したことはない?ここでは深く息が吸えないと思ったことは?クィアの自殺率の高さを知っている?

少し前にSNSでつながっていた友達が自死をした。その人はクィアだった。私はその人の本名だって顔も知らない。アイコンの写真とハンドルネームでお互いのことを認識してきたと思う。めちゃくちゃ親しかったわけでも無い。でも、TLに流れてくるその人のつぶやきはすごく好きだった。たまにいいねをして、たまにリプをする、そういう関係。友達だといっていいか分からないけど、私の中では緩やかだけれども確かにつながっているインターネットフレンズの一人だった。なんだか最近、その人をTLでみないな~、その人もTwitterをやめたのかな~なんて思っていたけど、ある時に、その人の投稿の更新があって、自死をしてこの世を去ったことを知った。(リアルでもその人と親交のある人が代理で投稿していた。)

すごく悲しかったし私は大泣きした。SNSに見せているのなんて、その人物のある一面にしか過ぎないけれども、でもまあ、この世を去りたくなる気持ちは大いにわかるとは思えてしまった。もちろん、本当のところは何もわからない、でも、この社会に生きるクィアであることは、確実にその人の死にたさの一因ではあったと思う。悲しいし寂しいし、悔しい。死なないでほしかったと思うと同時に、その人がこんなクソみたいな社会から解放されて本当によかったと思った。そう思えてしまうことが悲しいね。

わたしも定期的に死にたくなるけど、でもこんな社会のせいで私が死ぬのも癪に障りすぎるから死んでないだけ、みたいなとこはある。悔しいから生きてみせる。そんな感じ、あとはやっぱり、顔も名前もしらないインターネットフレンズが亡くなったことでも、私はすごくダメージを受けて、今でもたまにその人のことを思い出して泣くし、本当に胸が痛いのだから、まあ私が死んだら同様に悲しむ人がいることも想像がつくわけで、それは嫌だと思うから生きているの。

これを書きながらまあ何を言いたいのか自分でもよくわからないけど、まあ、今いる空間が息苦しく感じれて、将来に希望が持てないような社会だと、人は簡単に死んでしまうんですよ。そして私は怒っているんですよ、ということをね、記録しておきたかったからこれを書き殴りました。2024年の春。

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浮奇のピアノ配信。私にとっても追悼のための配信。初めて最後の歌を聴いていた時、すべての歌詞は理解しきれなかったけど、私はその友達のことを思い浮かべていたら、浮奇が演奏終わりに語ったことで、ああこれは本当に追悼の歌だったのだとわかって、その瞬間に大泣きした。

最近読んでよかった漫画。

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