今日のシャニマス 11/30

quelque_nanika
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公開:2023/11/30

満開、アルストロメリア流幸福論──つなぐ・まごころ・みっつ──

アルストロメリア最初のイベントコミュ。普段から放クラ合宿回を除いては最初期のイベコミュをほとんど読み返すことがないのだが、アルストロメリアのは特になかった。シャニアニでも触れられていたような気がするが、アンテナに引っかからなかったくらいで、せっかくなら早めに手をつけてみようと思い、今日はこれにした。

思っていたよりもずっとアルストロメリアの今後につながっていた。後に度々向き合うことになる課題が"ひとまず"解決されていて、根本的な部分ではまだいろんなことが保留されていそうな雰囲気に当時、危うげな空気を感じてアルストロメリアに入れ込めなかったのを思い出した。

ストーリーとしては、アルストロメリアがタウン誌の取材を任されて一部の記事を担当するという仕事の話になる。それぞれが行きたいところを出して取材候補地を考えるという段で、甘奈はゲームセンターを、甜花はブックカフェを推薦した。千雪からの候補は特にないが、最終的に記事のひと枠をゲーセンvsブックカフェの対立にすることで両方紹介するというアイデアで貢献した。また、お祭りの紹介も担当することになっていたため、大崎姉妹は千雪さんに似合う髪飾りをプレゼントし、千雪は二人に似合う縦錦のアイテムをプレゼントしたのだが、お互いにプレゼントのために自分が浴衣を着るのを諦めていたため、私服に髪飾りでお祭りを回って取材をした。

タウン誌の仕事を通して、千雪は仲良し姉妹の邪魔をしないようにという気配りのせいでアルストロメリアという3人組になれていなかったことに気づく。サポートカードの方で甘奈は甜花との関係が変わっていくことに実感がないながらも漠然と気にしていて、千雪が言った「関係が成長する」という考え方によって前向きになっていた。

3人でアルストロメリアというのは言うまでもなく『薄桃色』で本格的に深掘りすることになるキーワードだ。今回の『幸福論』で「双子ともう一人ではない」ということに気づいたが、それだけでは不十分で、甜花と甘奈と千雪というそれぞれ別の人間が集まっていることでようやく3人になれるというのが『薄桃色』の主題である、というのは乱暴なまとめだろうか。いわば「2+1(当初の見方)じゃなく3(幸福論)だと思いきや1+1+1=3(薄桃色)」とでもいうような。どうだろうか。ともあれ、すでに『幸福論』で3人が集まるだけではアルストロメリアになれないことが注目されていたのは、読み直してのちょっとした気づきだった。

髪飾りなどでのサプライズが双方向になったせいで思いやりがかみ合わなかったのもなかなか印象的だった。髪飾りは千雪さん抜きで千雪さんのことを話して出した結論だし、縦錦は千雪が一人で姉妹を思いやった結果なわけで、どちらもサプライズに気持ちが集中していて相手に相談することを避けている。自分の思いを隠したり、相手の心に踏み込めないでいることが、(ちょっとした)問題を生み出すというのが今後もアルストロメリアで頻発する構図で、それがやがて「思いの力は弱いから繰り返し伝えてあげてください」という結論にたどり着くのだから長い道のりを感じる。

後々まで課題になり続けるという意味では、甘奈が甜花との関係が変わっていくことを気にしていたことの方がよほど長引いているし、なんなら最近の話もそんなんだった。「関係が成長する」という言葉は千雪が弟との関係の変化を通して得た教訓で、甘奈が最終的に同じ結論に至るとしても甘奈自身の言葉として出てこないうちはおそらく本当の意味では腑に落ちることはないのだろうし、この時点での納得感はまやかしなわけで、今見ても性急に納得するこの時期の甘奈には危うげな雰囲気がある。

そういえば、大崎姉妹が推薦するのがお互いの趣味っぽいところなのも面白かった。甜花はブックカフェ、甘奈がゲーセンなので、これは相手を喜ばすためなのかと思いつつも、取材対象として採用するに値する根拠をそれぞれが出してて譲らない様子もあって意外だった。自分の主張は通すんだな〜と思っていたら後日、甜花の行きたいところを甘奈が選んでくれたと甜花が言っていて、その発言に対して甘奈は「やっぱ甘奈たち、おんなじだね」と返したりもしていて、味わい深かった。

自分の行きたいところを通す点で確固とした自分があるようでいて、相手が喜んでくれそうなところを選んでいるから相手ファーストのようでいて、そうすることで「おんなじ」であることを確かめる気持ちは双子という運命共同体ファーストな姿勢でもあって、双子だからと言って何もかも一緒というわけにはいかなくなる未来を棚上げにしている。わお。

後に問題として浮上してくることがあれもこれも布石されてて、それでもこの場に限っては上手く収まっているような仕上がりだ。こうしてみると『幸福論』のシナリオでは、浴衣を着れなくなってしまった状況に対して、どこかからたまたま浴衣を入手できたりせずに私服で取材に臨むことになっているのがえらいなと思う。原因があって生じている問題は、御都合主義的に解決せずに最後まで問題として残そうという意思を読み取りたくもなるのだが、贔屓しすぎかしら。