ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)的には女優ではなく俳優が正しい。英語ならactressではなくactorだ。どのような意図であれ、女性であることに不当にバイアスをかける表現は、性差別だから良くないとされる。
一方で、あえて女優と呼びたい場面もある。去年、日本で公開された映画『サブスタンス』は、加齢とともに居場所を見失っていくハリウッド「女優」の苦悩を描いたホラー映画である。本作のメガホンをとったコラリー・ファルジャ監督も女性であり、インタビューではあえてactressという言葉を多用している。監督自身の経験も本作には色濃く反映されているという。
つまり『サブスタンス』は、作者の性別が作品の一部であるといえる。全く同じ映画を男性監督が撮っていたら、同じように評価されただろうか? そもそも、この映画は主演俳優が女性でなければ成り立たない。主人公・エリザベスを演じたデミ・ムーアもまた、映画の中の物語と、自身の体験を少なからず重ねたはずだ。女優と呼ぼうが俳優と呼ぼうが、そのキャラクターは女性が演じなければならないと決まっている時点で、少なくとも完全にニュートラルではない。
自分とは全く異なる他者の人生を覗き見ることができるのがフィクションの面白いところだと思う。それは、創作者にとっても同じ。私は高校写真部を舞台にした恋愛ゲームをつくっているけれど、たとえば幼馴染の男の子との距離感に悩む女子高校生を私は経験したことがないし、その感情を精緻に描きとることもできない。それでも、セリフを書くことはできる。イラストを描くこともできる。彼女に命を吹き込むお手伝いをすることができる。創作とは、それくらい自由なものだ。
同時に、私が彼女を生かしているという事実もまた事実だ。彼女は私から自由ではないし、私もまた彼女から自由ではない。創作者や表現者は、物語と無関係ではいられない。ではどうするか、という選択にこそ作家性が宿ると私は思う。
つまり、さっきの問題の答えはこうだ。『サブスタンス』を男性監督が撮っていたらどうなっていたか。そもそも、男性監督は同じものを撮れない。そして、コラリー・ファルジャ監督以外の誰一人として『サブスタンス』を撮ることはできなかった。デミ・ムーア以外の誰一人としてエリザベスを演じることができなかったように。