私が『天気の子』を好きな理由

池田大輝
·

私は新海誠監督のファンである。「好きな新海作品は?」と訊かれたら『秒速5センチメートル』と答えることが多いけれど、次いで、あるいは同じくらい好きな映画が『天気の子』だ。

2016年、新海さんは『君の名は。』で大ヒットを収めた。すごい人気だった。自分も10回くらい映画館で観たと思う。それまでの新海作品とは文字通り桁違いの興行収入を叩き出した。

2019年、『君の名は。』に続いて公開されたのが『天気の子』だ。こちらもかなりの好成績を記録したが、世間の傾向としては『君の名は。』よりも評価は劣るらしい。「前作の二番煎じだ」とか「主人公の行動が理解できない」とか「商業主義に染まってしまった」みたいな感想が多いように見える。

言いたいことはわからなくない。たしかに、物語のキャッチーさとかわかりやすさ(『君の名は。』がわかりやすい話だとは全く思わないが)は『君の名は。』が勝る部分も多いだろう。でも、私にとってそういったことはどうでもよい。『天気の子』で私が心打たれたのは、新海誠という作家の「純粋さ」である。

(なお、ここから先はいち新海誠ファンの主観的な考察と妄想であることをお断りしておく)

『君の名は。』が新海さんに与えた影響は計り知れないものだったはずだ。その以前も一部のファンには支持されていたようだけれど、そこから急に世界的な映画監督としての地位を築いてしまった。新海さんの戸惑いも大きかったんじゃないだろうか。そして、想像するに、新海さんに最も影響を与えたものは「新海誠を取り巻く大人の存在」だったと思う。そのことが、『天気の子』で明確に描かれているように、少なくとも私には見えた。

『天気の子』は、田舎から家出してきた主人公・帆高が東京へ迷い込むところから始まる。夜の新宿で、レインコートを被った帆高は、やかましいネオンやいかがわしい大人たちをかわしながら、あてもなく放浪する。歌舞伎町の片隅で自分と同じように小さくうずくまる猫を見つけ、カロリーメイトを与える。しかし、ホストのような男に「邪魔だ」と言われ、男が蹴とばしたごみ箱から散乱した空き缶を拾い集める。

冒頭15分で描かれる帆高の姿が、『君の名は。』以降の新海さんの姿と重なるように、私には見えた。もともと新海さんは完全な自主制作からスタートした。ゲーム会社に勤めていて、アニメ業界の人ですらなかった。そんな人が『ほしのこえ』という短編アニメをほぼ一人で制作したことをきっかけに映画監督としてデビューすることになった。それから15年間、細々と映画をつくり続け、そして『君の名は。』が大ヒットした。

きっと、本当に想像を絶するような変化だったと思う。何せ100億円以上の興行収入を記録したのだ。常人には想像もつかない世界があったはず。そして、それは新海さんにとっても同じだったのではないか。

お金が集まるところには人も集まる。いい人もいるだろうけれど、むしろ、悪い人が集まりやすい。そういう環境に、新海さんは放り込まれた。私は、新海さんは繊細な作風の反面、かなりタフな人だと思っている。でなければ、『君の名は。』の大ヒットのあとに『天気の子』をつくることは不可能だ。そう、タフさ。あるいは、言い換えれば「反骨精神」または「執念」か。そういうものが『天気の子』からは滲み出ていた。

スポンサーの圧力も少なくなかっただろう。それは作中からも明確に見て取れる。『君の名は。』に比べて、企業名や商品名が露骨に出るようになった。これに対する批判も多い。でも、それはただの「忖度」ではない。むしろ、れっきとした「反抗」なのだ。

『君の名は。』のヒットを受けて、これまで出会うことのなかったたくさんの「大人」と出会うことになった。それは必ずしも良い出会いではなく、むしろ足枷になることも少なくなかっただろう。つくりたいものをつくれない。やりたくないことをやらなければならない。それなのにファンからは「商業主義に染まった」と叩かれる。本当に大変だったと思う。きっと、想像を絶するつらさだったと思う。そういう、行き場のない気持ち、言い換えれば「純粋な心」が、きわめて高い純度で、スクリーンに投影された。

本当に、呆れるくらいの純粋さだ。私は、新海誠という作家を形容する言葉は「繊細」よりも「純粋」のほうが適切だと考える。繊細さは、美麗な背景美術を見れば誰でもわかるが、純粋さは、どうやら人を選ぶらしい。「帆高が家出した理由が理解できない」というレビューをいくつも見かけた。「理解できない」という時点で、その人は純粋さを失っている。理解できないからではなく、何事も理解しようとすれば理解できると思い込んでいるからである。理由がないから純粋なのだ。子供のわがままに理由はない。『天気の子』がなぜ『天気の子』というタイトルなのかを考えてみてほしい。子供であるということ、子供っぽいということ、大人になりきれなかったということ。大人の世界に思いがけず飛び込んでしまった悲劇の映画監督が、笑ってしまいたくなるくらい純粋な心で、笑ってしまいたくなるくらい純粋な子供心を描いた映画、それが『天気の子』であり、それこそが、私が『天気の子』を好きな理由である。

途中にも書いたが、これはあくまで私の考察であって、新海さんがどのように思っているかはわからない。でも、たぶん、新海さん自身もわからないんじゃないかな。そこまで明確な目的意識をもって映画をつくっているわけではない気がする。わからない。でも、純粋さとは往々にしてそんなものだろう。純粋な衝動というものは誰にも理解できない。この文章も衝動的に書いた。別に、誰に納得してほしいとも思わない。理由はない。理由がないものは美しい。それで充分だろう。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink