可愛い自撮りがXのおすすめ欄を駆け巡る。自撮りに限らず他撮りも多い。知らない人がほとんどである。いずれにせよ、みんな可愛い。この世界に生きている人間は全員可愛いのではないかと錯覚してしまいそうになる。アプリで加工しているかどうかは関係ない。
もはや、猫の画像みたいなものだ。猫は可愛い。同じように、自撮りを上げる人はみんな可愛い。スパムを除けば、猫の画像を見て不快になる人はまずいないだろう。みんな幸せな気持ちになれる。いいねもたくさんつく。収益にもなる。フォロワーも増える。世界は幸せに満ちていく。
ところで、可愛がられることと愛されることは必ずしも一致しない。猫の画像にいいねした人が、猫を愛しているとは限らない。その猫に興味があり、愛しているからいいねするのではなく、可愛いと思ったから、本能的にいいねするのだ。
可愛い自撮りも同じ。可愛さとは、普遍的なものである。言い換えれば、可愛ければ誰でも良い、ということ。赤ちゃんを可愛いと思うのも同じ。赤ちゃんや猫を愛でるのと同じように、可愛い自撮りにいいねするのだ。
それがだめだと言っているのではない。赤ちゃんや猫みたいに可愛がられたい人もいるだろう。その場合、需要と供給が釣り合っているから、みんな幸せである。私が疑問に思うのは、可愛がられることと愛されることを混同する風潮のほうだ。
「可愛いは正義」という言葉がある。これはあながち間違っていないと思う。喩えるなら「砂糖の入ったドリンクは美味しい」みたいなことだ。砂糖は美味しい。甘いものが苦手な人以外、みんな砂糖が好きだ。それは、砂糖がみんなに愛されていることを意味しない。砂糖を赤ちゃんや猫に置き換えても同じことが言える。
可愛さには、それくらいの価値しかない。赤ちゃんや猫が必ず可愛いように、ネットの自撮りも可愛いのだ。それだけのことなのに、可愛さこそがすべて、みたいな風潮に、やや辟易しているのかもしれない。
私は恋愛ゲームをつくっている。これまでに登場したヒロインはざっと10人くらい。当然ながら、みんな可愛い。あまりにも可愛い。けれど、可愛いだけじゃだめなのだ。可愛いだけじゃなく、愛されなければいけないのだ。作者である私にできることは、みんなを死ぬほど愛することだろう。今日も可愛いねと呼びかけることは、不器用な私の最大限の愛情表現である。