昔はそうではなかった。やればできる、という全能感に溢れていた。その幻想を初めて打ち砕かれたのは、たぶん『秒速5センチメートル』を観たとき。あまりの純粋さに圧倒された。もちろん、画作りもすごいのだけれど、それ以上に、ガラスのように透明で、触れれば壊れてしまいそうな純度。当時は気づいていなかったと思う。歳を重ねて、今思えばそうだった、と思えるようになった。
そういうことが本当に増えた。本を読めば「この文章は絶対に書けない」と思うし、お笑いを見れば「このギャグは絶対にできない」と思うし、人と会話をすれば「こんな大人には絶対になれない」と思う。大人になったのに、皮肉なものだ。
自分の限界を知る、ということとはちょっと違う。限界とは「ここまでならできる」と、自分の頭の少し上に線を引くイメージ。ここで言いたいのは「こっちに進んだら痛い目に遭うだろうな」という危険信号に近い。
卑近な例を挙げると、毎朝、満員電車で通勤するということが自分にはできる気がしない。本当に特殊能力だと思う。冗談でも皮肉でもない。それくらいすごいことを平然とやってのけている。当の本人は「平然とやってのけている」つもりはないかもしれない。でも、それを何年、何十年と継続できるのは才能としか言いようがない。努力でどうにかできる話ではない。
最近は、人に会うたびに何かしらそういうことを思う。少し前までは、そのたびにいちいちコンプレックスに感じたりもしていたけれど、少しずつ慣れてきた。「すごいなあ」と思うだけ。空を見上げて「きれいだなあ」と思うのに似ているかもしれない。
それは、むしろ、心地よさに近い。空の喩えがやはりしっくりくる。どう足掻いたって美しい空にはなれない。そんなこと、誰だって知っている。それなのに、空ではなく人間を相手にした場合には、複雑な感情が渦巻くことがある。嫉妬やコンプレックスは人間にしか抱くことができない。もしかして、人間を人間として見ていないから嫉妬しなくなった? まあ、一理あるかもしれない。
人間はそれぞれ、結構違う。常識が通用しない人というのは本当にたくさんいる。常識が通用しないと思うときは、自分の常識を疑うべきだろう。画一的なコミュニティに属しているとなかなか気付かない。似た者同士のコミュニケーションは楽だけれど、そこに甘んじてしまうせいで、人間関係で揉めることになる。気が合うパートナーと結婚したはずなのに揉め事ばかり起きるのは、相手との共通点だけを見て、違いを見ていないからだろう。
「この人には絶対に敵わない」という感覚は、決して悪いものではない。むしろ、他人と自分の違いを冷静に観察できている証左ともいえる。「敵わないポイント」を見出すことは、言い換えれば、その人の強みを発見することだ。これができる人は、他人を「活かす」仕事に向いているだろう。任天堂の宮本茂さんが「なにもできないからプロデューサーになった」と語るインタビューをちらっと見たことがある。宮本さんには絶対に敵わないと思った。