「脱がなきゃ売れないよ」という、ドラマかアニメでしか聞かないようなセリフを実際に言われたことがある。私が脱ぐということではなく、私がかかわるゲームのキャラの肌の露出を増やせ、という意味である。かかわったゲームがそもそも少ないから、簡単に特定されてしまうかもしれない。まあ、その会社のゲームのパッケージは水着イラストばかりなので、さしたる問題ではないだろう。
雑誌の表紙の水着グラビアは、コンビニに行くと今でも普通にある。明らかに雑誌の中身に関係なさそうな女性の水着姿が表紙になっている。さっきのゲーム会社の件も合わせて考えると、水着が売れるのはおそらく間違いないだろう。肌の露出を増やせば売れることが、統計的に(または感覚的に)明らかになっている。たんに編集長やプロデューサーの趣味、ではないと思いたい。
では、いっそ、ぜんぶ露出してしまえば良いではないか、という話になる。それを堂々とやっている産業がある。実際、アダルトはよく売れるらしい。売れることを至上命題とするなら、アダルト産業は手堅いのだろう。
一方で、少し視野を広げてみると、世の中にはもっと売れているものがたくさんある。『鬼滅の刃』にも『君の名は。』にも『千と千尋の神隠し』にも、水着キャラは登場しない(鬼滅は水着グッズくらいはあると思うが)。なぜ、脱いでいないのに売れるのか。
それを考えるためには、なぜ脱げば売れるのかを考える必要がある。いや、むしろ考えないほうが良いかもしれない。性産業は、人間の根源的な欲求をダイレクトに揺さぶる。その意味では、砂糖がたっぷり入った甘いドリンクや、マクドナルドのようなジャンキーな食事に似ている。不動産業も同じ。すみかを失うことへの恐怖は人間の生存本能そのものであり、きわめて安定した需要が見込まれる。どれだけ文明が発達しても、生物としての欲求が消えることはない。アダルトで儲けようとする人は、それをよくわかっている。
しかし人間は、本能のままに生きる獣ではない。欲求をコントロールして、より高次の目標を達成することができる。芸術や創作はわかりやすい例だろう。ただ生きるだけなら、全く必要のないものだ。求められていないにもかかわらず、踊ったり歌ったり演じたりできるのは、ちゃんと考えているからだ。稽古も練習もトレーニングも、できればやりたくないだろう。芸術は本能ではできない。思考が、訓練が必要なのだ。
「脱げば売れる」という言葉は、そのような複雑性を無効化する。本能にアクセスできる、手軽なショートカットなのだ。それが悪いと言いたいのではない。ショートカットにそれなりの代償が伴うことは、生きていれば誰しも経験するだろう。安くて美味しいからといってカップラーメンばかり食べていると、身体を壊すのと同じである。
「脱げば売れる」はきっと正しい。それは、買う側の視点から見れば、「脱ぐなら誰でも良い」ということでもある。アパートは住めればどこでも良いのと同じ。あなたがそれを望むのなら、別に脱げば良いと思う。もしも、そうではないのだとしたら、あなたにしかできないことをすべきだろう。あなたにしか見えない景色を見るために、歌ったり踊ったりしているのではないか。
あなたはあなたを纏っている。それは、夢へと羽ばたく羽である。脱ぎ捨てたくても、脱げないのだ。