最初に断っておくと、私には推しと呼べる存在がいない。好きな人、応援している人はいるけれど、推しという言葉はしっくりこない。私はお笑いコンビのジャルジャルが好きで、毎日コントを観ているし、ネタサロン(ファンクラブみたいなもの)の会員でもある。でも、ジャルジャルは推しではない。タイトルに推しと書いたのは、わかりやすさを優先するためである。
ジャルジャルのネタサロンの会員特典に「ゼロから新ネタ作る奴」という番組がある。ジャルジャルのお二人が生配信でトークをしつつ、その流れで新ネタをつくる企画だ。昔はよく観ていたけれど、最近はめっきり観なくなってしまった。
声優の青木瑠璃子さんと髙橋ミナミさんがパーソナリティを務める「青木と髙橋のもうすぐ金になるラジオ」という番組も一時期は視聴していた。のだけれど、こちらも観なくなった。面白いとか面白くないとかはあまり関係ない。青木瑠璃子さんは、面白い人だと思っている。
たぶん、ラジオというメディアがあまり得意ではないのだと思う。ラジオを聴く習慣は昔からなかった。渋滞する高速道路で流れる夕方の気怠いラジオは、どちらかといえばトラウマ寄りの記憶である。
最近はラジオ番組がとても多い。ラジオと言いつつ、実際にはYouTubeだったりニコニコ生放送だったりするわけだが。きっと、手軽なのだろう。コストはほとんどかからない。テレビ番組とは違い、ロケも大がかりなスタジオも不要。YouTubeなら、最悪iPhoneで録音したものをそのまま流せば良い。
そのような手軽さが、私は少し苦手なのかもしれない。昔から映画が好きだった。ラジオとは異なり、つくるのにとんでもなくお金がかかる。2時間の映像作品を完成させるために、何千人という大人が働く。そうやって出来上がった映画を、映画館の巨大なスクリーンで観る。映像、演技、世界観。画面の向こうに存在するすべてに圧倒される。映像体験という言葉すら陳腐だ。世界に呑み込まれるような感覚。それが好きで映画を観るし、創作をしている。
ラジオは映画とは役割が違う。パーソナリティの、それこそパーソナリティをリスナーに届ける。ラジオの向こうにあるのは世界ではなく個人だ。
たぶん、私はその人の「素」に興味がないのだと思う。どれだけその人が「推し」だったとしても、である。私が見たいのは、その人が生み出す「世界」そのものだ。ジャルジャルなら、トークではなくコントを観たい。声優なら、雑談ではなくお芝居を聴きたい。だから、やっぱり映画が好きなのだ。ここではない世界に行くことができる。見たことのないものを見ることができる。会ったことのない人に会うことができる。ゲームも悪くはないけれど、プレイヤー=私という現実世界の存在を強制的に意識させられるのはやはり少し苦手だ。その点、ビジュアルノベルはほぼ映画に近い。私がギャルゲーをつくる理由のひとつでもある。
世界を生み出す力を持つ人は多くない。それは、稀有な能力だと思う。私が誰かを推すことがあるとすれば、その人が創造した世界に惚れたからだ。神様のプライベートには興味がない。興味を持ってはいけない気がする、と言ったほうが正しいかもしれない。