恋愛話をここ数年、ほとんど聞いていない。単純に人と会う機会が少ないせいもあるだろうが、それにしても、恋について語る人を見かけることがほぼ、なくなった。
SNSで毎日のように騒がれる「男女論」は恋愛話ではない。あれはもはや、暴力の応酬にすぎない。見ているだけで疲れる(それでも見てしまうのは暴力というものの魔力か)。同じようにモテテクニックもナンパ術もモラ夫に対する呪詛も、いずれも恋とは関係がないものである。
恋とはもっと複雑で、多様で、メルヘンチックで、それについて語ることとの区別がきわめて難しい、要するによくわからないものではなかったか。一度でも恋したことのある人ならわかると思う。本当に何もわからなくなる。その不安定さが不思議に心地よく、そして情けなく、雲の上にいるような感じがして、でもいつの間にか落下していることに気がつき、その数秒後には地面に叩きつけられる。不条理と夢物語の境界で、果たして自分が生きているのかどうかもわからないくらい苦しく、楽しく、死にたくなる。恋について明晰に語ることは不可能であり、それはつまり、恋する者が語る言葉はすべて、ぼんやりと恋について語っていることを意味する。
SNSは、恋を語る場には不向きである。だから、SNSに恋の話は流れてこない。SNSで語られるのは、すべてが「共感」だ。共感するから、拡散する。
他人の恋心に共感することは不可能だ。そんなことはない、と思うかもしれない。でも、それは、恋に恋しているだけにすぎない。恋とはプライベートなものであり、一度きりのものであり、二度とは訪れないものである。恋に再現可能性はなく、つまりは科学的ではないということだ。
だから、恋の話を聞くことができる機会は、それだけ貴重といえる。他人の恋愛話を聞くことは本当に楽しい。恋する者の口からしか出てこない言葉がこの世界にはたくさんある。作家としても勉強になる。もっと恋バナを聞かせてほしい。冬は悪くないチャンスだと思うし恋せよ読者。