どこから話そうか。「結婚したい」という言葉から一般に想像されるニュアンスとは少し違うことを私は考えていると思う。じゃあ、まずは、創作について。
私にはつくるべきものがある、ということはもう何度も書いている。夢とか好きとかそういうことの遥か手前、あるいは遥かむこうにある。しかも、ひとつつくって終わりではない。つくり続けなければならない。だから、持続可能な環境が必要だ。命を懸けてつくり散るのはかっこいいかもしれないけれど、それではだめなのだ。持続可能性はいちばん大事なものであり、いちばん私に欠けているものだ。
では、どうすれば持続可能になるのか。簡単な解決策のひとつはお金だ。お金が無限にあればつくりたいものを無限につくれる。けれど、簡単な解決策は簡単じゃない。そんなにうまい話はない。地道にやっていくしかない。時間はかかる。そう、時間がかかるのだ。
その長い道のりをどう歩んでいくか。これこそが、私が真剣に向き合わなければならない問いである。やはり簡単な答えはない。いま持っているリソースの範囲で、サボらず、怠けず、コンスタントに作品をつくり、発表する。これを繰り返していくだけ。書くだけなら簡単だけれど、実際にやるのは大変だ。ひとりですべてを実行するのは並大抵のことではない、ということを身をもって痛感した。ひとりでは、あまりにも無力なのだ。
だから仲間が必要だ。それも、長くともに歩んでいける仲間が。役割は問わない。むしろ、役割など無いほうが良い。この先にどんな困難が待ち受けているかはわからない。不確実な未来に対応できる柔軟性のほうが遥かに大事だ。同じビジョンを共有し、見えない暗闇をともに歩んでいく仲間。きっと、多くはいないだろう。簡単に見つかるとも思わない。
仲間の存在は、持続可能性に直結する。人間はひとりでは生きていけない。ひとりでは生きるだけでも大変なのだから、つくるのはもっと大変だ。本当に孤独だった孤高の天才を私は知らない。むしろ、素晴らしい作品を世に残した人の多くは、良き理解者がそばにいた。慕われていたとか、人望があったとか、そういうこととは少し違う。誰にも理解されない作家であっても、すぐそばで理解しようとする人、あるいは理解できなくてもともに歩んだ人はいたはず。仲間であるとは、それくらい根源的でプリミティブな関係性だと私は思う。それは、見方に依っては、ほとんど結婚と同じようなものではないか、というのがこのエッセィで言いたいことである。
結婚する人たちはなぜ結婚するのか、私にはよくわからない。ほかの誰でもなくその人とずっと一緒にいたい、と互いに思える相手に出会うことはほとんど奇跡だ。そのような奇跡が世界中のあちこちに存在することがにわかには信じ難い。でも事実だ。だから、期待してしまうのだ。同じ船に乗り、荒れ狂う嵐のその先を見つめ、星座を頼りに海を征く。そのような仲間、相棒、パートナーが世界のどこかにいるはずだ、と。
この際だからはっきり言おう。私は結婚相手と創作のパートナーをほぼ同一視している。つくることは生きることであり、従って、ともにつくる仲間はともに生きる相方だ。実際にそのような人たちはいる。クリストファー・ノーラン監督の妻、エマはプロデューサーとして、そして人生のパートナーとして彼とともに歩んできた。決して珍しいことじゃない。むしろ、それくらい強い「チーム」だからこそ生まれるものもあるだろう。
念のために書いておくと、私は結婚相手に「私の創作を理解し支えろ」と言いたいのではない。理解する必要もないし、支えなくてもいい。別に、すべてを担わせるつもりはない。ただ、もし私と人生をともにするのなら、私の創作と無関係ではいられないとは思う。恋愛ゲームのヒロインのモデルにされるくらいは覚悟してほしい。まあ、とはいえ、理想の結婚相手とは案外、これを読んで「そうやって極端に考えるから結婚できないんだよ。あんたの創作なんかどうでもいいけど、これ以上見てらんないからあたしが結婚してあげる!」と吐き捨てるようなタイプかもしれない。そんなことを言われたら泣いちゃうけれど。