脚本は、それ単体では機能しない。映画、舞台、アニメ、ゲーム。どんなメディアであれ、脚本は作品のために書かれるものだ。この点は小説と大きく異なる。小説は、文章そのものを楽しむメディアだ。文章がすなわち作品である。
脚本家と小説家の違いは、脚本と小説の違いよりもさらに大きい。職業脚本家は、自分の好きなように脚本を書くわけではない。原作の設定や世界観、あるいは監督のイメージするビジョンが先にあって、それらを物語としてうまくまとめるのが脚本家の仕事だ。もちろん、原作から手がける人もいるけれど、そういう作家タイプの人は有名になりやすいから、一般にイメージされる脚本家像には、ややバイアスがかかっている気もする。
極端に言えば、脚本も作品全体の一部、つまり部品である。それは、たとえば、音響や照明やカメラや衣装や大道具や小道具やVFXが部品であるのと同じ。見方に依っては、演出つまり監督も、作品の一部であるといえなくもない。
作品の骨子はなにか?という問いに、答えるのは結構難しい。一般には、監督の作家性や、脚本の良し悪しが、作品を貫く軸であり、その価値と解釈される。しかし、先に書いたように、脚本家は好き勝手にやっているわけではないし、さらに言うと、監督だって好き勝手にできることは稀だ。予算や人員やスケジュールと闘わなければならないし、ほとんどの場合、妥協を迫られることになるだろう。予算が足りなかった、スケジュールが間に合わなかった、と言い訳はできない。したがって、ユーザーは、脚本とか演出とか、表面に見えやすい要素から作品を評価することになる。
映画も、舞台も、アニメも、ゲームも、かなり総合芸術だと思う。どれほど作家性の強い作品であっても、監督や脚本家が一人でつくるわけではない。いろんなものが有機的に絡み合って、ひとつの作品をつくる。脚本は、たしかにその中心を貫いているかもしれない。けれど、背骨がその人の本質ではないように、脚本がその作品の真髄とは限らない。
ということを、作り手はもう少し考えても良いと思う。脚本は評価されやすいし、「脚本がすべて」とのたまう御大も少なくない。それは、あながち間違いではない。脚本は大事だ。でも、脚本以外も大事なのだ。すべてを大事にすることはできない。脚本を大事にしたのなら、「脚本が良い」は褒め言葉だろう。そうではないのなら、もっとうれしい褒め言葉があるはず。言われてうれしい褒め言葉こそが、あなたの作家性なのかもしれない。