とあるYouTuberが「自我を出した途端に登録者数が減った」という趣旨のことを話していた。似たような話をXでも見かける。自撮りを上げたらフォロワーが減った、とか。
これは、コンビニに喩えるとわかりやすい。あなたがコンビニに買い物に来たお客だとして、店員がいきなり自己紹介し始めたらびっくりするだろう。お客が求めているのは商品であり、店員には関心がない。できるだけ店員と関わりたくない人も多いと思う。私も、セルフレジがある店舗を選びがちである。
YouTuberにも同じことがいえる。音楽が聴けるチャンネルだと思って登録したのに、急に「中の人」が出てきたら、視聴者は困惑する。ゲームクリエイターだと思ってフォローしたのに、ゲームの話が一切なく、謎のエッセィばかり読まされている方もいらっしゃるかもしれない。要するに、需要と供給のミスマッチである。多くの場合、供給側が需要を見誤っているのが原因だ。
楽曲が再生されることは、視聴者が作曲者に興味を持っていることを必ずしも意味しない。作業用BGMのように、コンテンツそのものに強い個性がない場合はなおさら。まさにコンビニの比喩がぴったりである。作者の色が薄い、汎用的なコンテンツほど、作者の声はノイズになる。グラビアアイドルなんかも同じ。消費者が求めているのは、美しい顔や魅力的な身体であり、思想やアイデンティティではない。もちろん、「ほかでもないその人」が好きなファンもいるだろうけれど、きわめて少数派だと思う。
自我を出した途端にフォロワーが減るのは、そのような商売をやっているからである。当然の道理であり、それを嘆くのは、お門違いと言わざるを得ない。なお、私自身は、自我を出さずにものづくりをするということが全く理解できない。理解できないし、やろうと思ってもできない。自我を求められないタイプの仕事に悉く適性のない人間である。一度だけ、ゲーム会社に派遣されて、単純作業みたいな仕事をしたら、半年でクビになったことがある。余談であるが、契約終了を伝えられた際、書類にしれっと「自己都合退職」と書かれていたため、私はすかさず会社都合に修正させ、無事、失業手当を受け取ることができた。従業員が自我を発揮することを、会社は想定していなかったのだろう。
自我や思想といったものが、なにかと敵視されがちだけれど、人はそれぞれ異なるアイデンティティを持ち、それぞれ違う考え方をしている。という、あまりにも当たり前のことが、人間社会においては当たり前ではないらしい。だから、社会というものが私には理解できない。こうして自我を垂れ流すくらいがちょうどいい。ここはコンビニではないのだ。喩えるなら、そうね……アイドルのフリーライブみたいなものかしら。少しでも気になったら、また来てね。