生きることは不安定

池田大輝
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公開:2025/3/20

人間は結構あっさり死ぬ。大きい怪我を放置すれば失血死する。多少の傷であれば免疫が機能して自然回復するけれど、ナイフで刺されたりしたら、基本的には助からない。これは、人間が動的なシステムであるがゆえの弱点といえる。血液が循環し、細胞が生まれ変わる。生きている限り、どの瞬間も人間の体の中は絶え間なく変化している。常にあらゆる物質が移動しており、それらが適切に組み合わさって機能することで人間は、生物は生きることができる。そのダイナミクスが停止するときが、すなわち死である。

この世界にあるものは、ほとんどが死んでいる。建物は鉄やコンクリートや木でできている。なぜそれらが使われるかといえば、安定しているからだ。風雨や地震に曝されても、その形を変えず、建物を守る。ナイフで刺されたくらいではびくともしない(そもそも刺せない)。

死んで、火葬されれば、人間はただの骨となり、地面に埋められた骨は安定な物質としてしばらく残る。生きている時間よりも、骨となって地面に埋まっている時間のほうが遥かに長い。しかし、骨になってしまったあとは、おそらく意識というものは消え、自分がいま骨となって埋まっていることを認識できない。生きている間にしか生を、私を実感できない。だから、生きていることを当然のように思ってしまいがちだけれど、物質的な視点で見れば、生きている状態、すなわち不安定な状態が維持されていることは、きわめて奇跡的といえる。

人生はしばしばジェットコースターに喩えられる。とにかく不安定で、次になにが起こるか予測できない。そのような状態を生と定義しても良いくらいだ。その場合、死はジェットコースターがスタート地点で止まっている状態に対応する。生は不安定で、ゆえに予測不能であり、死は安定していて、予測がしやすい。

安定した人生を選ぶ人が少なくない。生きることの不安定さは、きっと誰にとっても不安なものであり、それを解消するために、人類はさまざまなシステムを築き上げてきた。その結果、それなりに安定した人生というものを選択できるようになった。さっき、建物の材料は安定していると書いたけれど、厳密には少し違う。木は、単体では簡単に折れてしまうし、シロアリの被害も受けやすい。そのような弱点を補うために、建築というシステムが長い歴史の中で発明されてきた。不安定なものをうまく組み合わせて、安定したシステムをつくり上げる。人間がここまで繁栄したのは、そのようなシステムのおかげといえる。

しかし、システムも崩壊しつつある。そのようなニュースばかりが日々、タイムラインを駆け巡る。社会保障も終身雇用も、本気であてにしている若者はほとんどいないだろう。とにかく、自分の頭で考えて、自分の責任で人生を歩まなければならない。当然のことではあるけれど、やっぱり、しんどい。でも、しんどいのは当たり前だ。なぜなら、人生とは本来、不安定なものだから。

生きていることが奇跡的であればあるほど、不安定さも増す。不安定であることを奇跡と定義しても良い。不安定で、予測不能で、再現性がない。そんな人生をここまで生きてきたのだ。呆れるくらいの奇跡である。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink