ここのところ、日々書いているこのエッセィを読んでくださる方が増えている。感想やコメントをいただくことも増えた。とてもありがたいことだと思う。文章を褒めてもらうこともたまにあって、もちろん、うれしいのだけれど、正直なところ、私は文章が上手いとは思っていない。
学生の頃から国語が大の苦手で、本をほとんど読まない人間だった。読むのも苦手だし、書くのはもっと苦手。大学は東京工業大学(現東京科学大学)。理系の極みみたいな場所である。そんな私が、なんの因果か、ゲームのシナリオを書くようになり、最近はこうしてエッセィを書いたりもしている。
文章が上手くなった、とは思わないけれど、文章を書くのが楽になった、とは思う。コツを挙げるとすれば、書く前によく考え、書いている最中はなにも考えないことだ。書く前、というのは、書く10分前とか1時間前とかではなく、文字通り、書く前である。それは、たとえば、シャワーを浴びているときだったり、舞台を観ているときだったりする。
毎日エッセィを書くことが、しんどいと思ったことはない。頭の中は常に思考で溢れていて、そのひとすくいをこうして書き出している。ここに書いていることは、私の1%にも満たない。シナリオも同じ。少なくとも、これまで書いた3本は、ほとんど迷うことがなかった。気づいたら完成していた。これも、書いている最中ではなく、書く前が大事。世界やキャラクターに想いを馳せ、想像し、考え続けることで、書き始める時点でシナリオがほぼ完成している、という状態になる。
だから、仮に、私に文才のようなものがあるとすれば、それは文才ではなく想像力、あるいは妄想力である、といえる。脈絡のない思考をひたすら垂れ流すことは得意。それを文章に起こしたものが、この「しずかなインターネット」である。面白い話をして、と言われたら、ストップがかかるまで話し続けることができる。あるシチュエーションを妄想して、ひとりで劇をするのも好き。妄想は、私にとって、最も自然な営みのひとつである。
しかし、忘れてはいけないのは、妄想劇を聴いてくれる読者、あるいは観客の存在だ。さすがの私も、虚空に向かって語り続けるのはつらい。面白がってくれる人がいるからこそ、調子に乗ってしゃべりすぎてしまう。そして、この果てしなき妄想劇を嬉々として聴けるあなたが実は、きわめて稀有な存在であることを、きっとあなたは知らないだろう。ほとんどの人は、最初の一文でギブアップする。つまり、文才とは、読む力のことであって、これを読んでいるあなたは間違いなく文才がある。
さらに、恐ろしいことに、とんでもない妄想力をもって文章を読む「文豪」が、この世界には存在する。たとえば、このエッセィには、匂わせや裏メッセージの類を私は入れていないけれど、文豪の手(あるいは目)にかかれば、これがたちまちラブレターあるいは告発文に変わる。文豪の前では、私の妄想力などなんと可愛らしいものか。まだまだ精進せねばなるまい。ちなみに、匂わせも裏メッセージも本当にない。本当です。信じてください。