泣きたい夜というフレーズを聞いたことくらいはあると思う。でも、じゃあ、泣きたい夜に実際に泣けるのかと訊かれれば、これは案外難しいのではないか。
泣きたい夜という言葉には、なんとなく孤独なイメージがある。ベッドにくるまって、しくしく泣いているイメージ。しかし、そういうイメージが定着しすぎたせいで、泣いている自分をどこか客観的に観てしまう。あ、私、泣いてるな、と。すると、真剣に泣いているはずなのに、どこか芝居がかったような感じがして、この涙は本心なのだろうか、と怪しくなる。本当に泣いているのか、それとも演技で泣いているのか。いや、泣いているという意味ではどちらも同じで、じゃあ、なにが違うのかと訊かれれば、答えるのは意外と難しい。本当に悲しいかどうか? では、本当の悲しみとはなにか。本当に悲しくなければ泣いてはいけないのか。本当は悲しくないのに泣けるのはなぜか。本当に悲しいときに泣けないのはなぜか。
泣きたい、という時点で、すでにあれこれ考えてしまっているから、なかなか泣くことができない。本当に泣きたいときは、もう、泣いている。いや、泣きたい、という感情が、そもそも怪しい。涙は意図して流すものではない。感情がコントロールできず、自分の意思に反して勝手に流れるものだ。だから、泣きたい、という気持ちは、やはり、泣いている私を演出したい、という企みとほぼ同じだろう。演出というものは、それなりに工夫を要する。しくしく泣きながら演出することはできない。監督は泣いていては務まらない。
泣きたい夜とは、つまり、誰でもいいから構ってほしい夜のことだろう。そういうときほど、誰も構ってくれない。肝心なときに流れない涙は、大事なときにそばにいてくれない恋人と同じくらい役に立たないものだ。