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キャラクターと中の人を同一視する風潮

池田大輝
·
公開:2026/7/6

恋愛ゲームのシナリオを書いている書き手の一人として、キャラクターに自分自身を投影することは基本的にない。キャラクターは、他人である。仮に似た要素があったとしても、それは私が私の経験と想像に基づいて物語を書くがゆえの偏りであって、あえて自分を重ねてはいない。物語にキャラクターはたくさん登場するわけで、みんなに自分を重ねていたら、似たり寄ったりになってしまう。

というのは、あくまで私の場合。書き手によっては、もっと私小説的に、つまり積極的に自分自身を描こうとする人もいるだろう。それは、そういう作風である。私は良し悪しを決める立場にない。それを決めるのは、読者だ。

作者がどんな意図でそれを書いたとしても、読者はその作品を読みたいように読む自由がある。新海誠監督の『秒速5センチメートル』を観て、ああ、この人は過去に酷い失恋をしたんだな、と想像する権利が視聴者にはある。

キャラクターの中の人といえば、わかりやすいのは声優だ。観客がどのように受け取るかはさておき、中の人がその役としてライブに出演するケースをよく目にする。これについては、同一視するなというほうが無理があるように思われる。アイドルの場合、ステージに立つのはまさにアイドルその人だけれど、この場合は、そこにいるのがキャラクターなのか演者なのかは、観客に依って受け取り方が結構異なるのではないか。

最終的には、読者や観客、つまり受け手にすべてが委ねられるという点が、創作におけるたいへんスリリングなポイントだと私は思う。表現の自由はあるのに鑑賞の自由がないのは、いうまでもなく鑑賞は自由だからだ。作者や演者に危害を加えない限り、作品をどのように味わっても構わない。というか、作者は制限を設けることができない。このように楽しんでください、と注意書きをすることもできなくはないのだろうけれど、やりすぎると野暮になる。

個人的には、読者に依って全然違う受け取り方をされるほうがうれしい。全員が同じような感想を抱く作品をつくれと言われたら、つまらないと思ってしまう。私を好きになっても構わないし、嫌いになっても構わない。作者のことなんて忘れてしまうくらい物語にのめり込んでくれるのももちろんうれしい。主人公と作者を重ねても別に良い。どれほどそうとしか思えなくても、作者に関する情報は作品の中には一切ない。それを同一視するもしないも、やはり自由である。

そう思うと、作者と作品、あるいは演者とキャラクターは、不思議な距離感の中にある。同じではないが、無関係でもない。ではどのような関係かと問われれば、答えるのは難しい。少なくとも、作者(私)にとって、キャラクターも、演者も、読者も、全員他者である、ということ。

私は、キャラクターのみんなのことが大好きだ。一度生み出してしまった以上、その人生を見届ける義務がある。でも、それを差し引いても、純粋にみんなが好きなのだ。こんな気持ちを知ったのは、物語を書くようになってから。ほんのここ数年のことである。もしも自分を投影していたら、こんな気持ちにはならなかっただろう。私にとって、キャラクターは愛すべき他者であり、守るべき子供たちである。その気持ちを作品を通して伝えたい、とは思わない。ただ、みんなを好きになってもらえたら、こんなにうれしいことはない。

@radish2951
恋愛ゲームをつくっています。毎日21時頃にエッセィを更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink