このタイトルは正しくない。先日、是枝裕和監督が、全編iPhoneで撮影された映画をYouTubeで公開した。『シン・ゴジラ』では、庵野秀明総監督がiPhoneを構える姿が話題になった。iPhoneそのものは、映画制作の現場でそこそこ使われているらしい。
iPhoneで映画並みの映像が撮れる、とAppleが宣伝し始めて10年近く経った。その実力は充分に証明されたといって良いだろう。しかし、当時想像していたのとはずいぶんと違う未来になったな、と思う。誰でもiPhoneで映画が撮れる。そんな風潮があの頃はあった。いま、iPhoneでみんなが撮るのはTikTokでありYouTubeである。
広い意味では映画といえなくもない。誰もが10秒くらいの映画を簡単に撮影し、全世界へ配給できるようになったと考えると、iPhoneがもたらしたインパクトは尋常ではない。それくらい、世界をあっさりと変えてしまった。一方、映画業界のほうは、そこまでドラスティックな変化は起きていないようだ。AIが多少使われるようになったくらいで、スタジオでは相変わらず巨大なカメラがクレーンにぶら下がっている。
俳優やスタッフのギャラに比べると、カメラの価格は桁違いに高い(と思う)。だから、一昔前は機材へのアクセスが、そのまま業界へのハードルとして機能していた。iPhoneはその壁を破壊した。はずだった。
結果は逆だった。iPhoneさえあれば誰でも映画監督になれる。それは幻想だった。iPhoneという超高性能なカメラを持ち歩いているのに、誰も映画を撮ろうとしない。なぜか。それは訊いてみないとわからない。私の考えを述べよう。きっと、誰も映画など撮りたくないのだ。
ごく限られた映画監督の椅子を、夢見る若者たちが奪い合う。そんなパブリックイメージさえも幻想に思えてくる。映画を撮りたいのならば、いま手に持っているiPhoneで撮れば良い。2時間の映画なら数日で撮れる。出演したい人もたくさんいる。役者の卵に支払うギャラは、バイトして稼げば良い。完成したらYouTubeで世界中に公開できる。インディーズ作品を流してくれる映画館もある。映画を撮るのは、それくらい簡単なのだ。
そのようにして、実際に映画を撮っている人はゼロではない。YouTubeやInstagramで、短編ドラマのような形で短い映画をアップしている人はたしかにいる。けれど、iPhoneの数に比べれば、映画を撮る人の数はきわめて少ない。ほぼゼロだ。思うに、一昔前は映画監督もある意味アイドル的な存在だったのだろう。映画を撮りたいから映画監督になるのではなく、芸能界でチヤホヤされたいから映画監督になる。そういう側面が少なからずあったのではないか。
誰もが映画を撮れるようになり、そのプレミア感は消えた。これはアイドルにも同じことがいえる。誰もがアイドルの真似事をできるようになったから、アイドルの希少価値が低下した。本当に映画監督になりたい人、本当にアイドルになりたい人を可視化したという点にこそ、iPhoneの残酷なまでの功績があった、といえるかもしれない。
さて、かつて映画監督を目指していた私はといえば、ここ数年は映画を撮っていない。代わりに、恋愛ゲームをつくっている。あまり違うことをやっているつもりはない、とはいえ、映画を撮りたいなら撮れば良いという言葉はそのまま私に突き刺さる。ここに書いたことは、ほぼ自分に言い聞かせているようなものだ。まったく、言い返す言葉もない。まあ、きっとそのうち撮るよ。ゲームという、ぱっと見は映画と関係ない世界を経由したことで、映画に対して抱いていた幻想を解体できたのは思いがけない収穫だった。ライバルは多くない。焦らず、気長にいこう。