生まれた瞬間、人間は皆、不幸である。産声を上げると同時に、人生という名の十字架を背負う。生きなければならない、というのはなかなかに過酷な運命である。ゲームみたいに途中で投げ出すことができない。できなくはないが、相当の覚悟を要求される。好きで生まれたわけではないのに、好きに死ぬことは許されない。人生は時間軸方向に非対称である。
死は思いがけず訪れる。事故や事件、災害に巻き込まれて死ぬことがある。病気になって、本来の寿命よりも早く死ぬ場合もある。老衰で死ぬのは案外レアケースかもしれない。死の気配というものがおそらくあるのだろう。あ、もうすぐ死ぬのかな、と。死んだことがないので想像で書いている。でも、なんとなくそんな気がしている。
死ぬことは、眠ることに近いと思う。眠気に抗えないように、死に抗うことはできない。でも、それは絶望とか悲しみとは違う。どの眠りも心地よいのと同じく、死もきっと心地よいのだろう。拷問を受けているのでもない限り、死とは生きている人間が想像するよりも穏やかで、安らかで、幸せなものだと想像する。生まれてくる赤ん坊みたいに、泣き喚いて死ぬ人はいない。
生を祝い、死を呪うのは、その当事者ではなく、まわりの人間だ。生まれる人間は生を拒むが、まわりの人間は生を祝福する。死ぬ人間は永遠の幸せに身を委ねるが、まわりの人間は死からその人を引き戻そうとする。幸せとは、かくもエゴイスティックな概念なのか。ならば、誰かの幸せを願うことは、ほとんど侮蔑的ともいえる行為に思える。それでも、愛する人の幸せを願わずにいられないのは、不幸な生を受けてしまった哀しき人間の業だろうか。