改善活動という言葉がある。製造業に従事したことのある人なら、一度くらいは聞いたことがあると思う。カイゼン活動と書かれることも多い。その名の通り、身の回りの不便や不具合を、少しずつ改善していく活動である。よくあるのは、人手でやっていたデータ入力を、エクセルのマクロで自動化するとか。会社によっては、全社を挙げて改善活動を推進するところも多い。
私は以前、とある大手メーカーでシステムエンジニア(SE)の仕事をしていた。SEから見ると、実は改善活動は必ずしも良いものではない。エクセルの例がわかりやすい。マクロをつくって自動化するところまでは良いけれど、たいていの場合、そのような謹製マクロは放置される。誰もメンテナンスしないのだ。すると、たとえばマクロをつくった人が退職すると、誰もそのマクロのことがわからない。また、追加の要望や例外処理がどんどん出てきて、マクロが肥大化することも珍しくない。このようになると、改善どころか、むしろ余計な手間暇が発生してしまう。
だから、ちまちまと改善活動をするのではなく、全社で統制をかけるほうが、ITの観点からは健全である。データ入力を自動化したいのであれば、マクロを書くのではなく、IT部門が全社向けに用意した便利(と思っているのは往々にしてIT部門だけだったりする)なパッケージウェアを使うほうが好ましい。日本に比べると、欧米ではこうしたIT部門による統制は強いと聞く。イケア、スターバックス、マクドナルドなど、グローバルに展開している企業の多くは、システムへの投資額が文字通り桁違いだ。ルールを決め、それをシステムに実装することで、個々の従業員はどのような業務をすべきか迷わずに済む。不具合があれば、それはシステムが吸収してくれる。結果として、従業員は働きやすく、お客は高品質なサービスを受けられるというわけだ。
そのような仕事を3年くらいしていたせいで、改善活動にはネガティブな印象がある。ちまちま改善するのではなく、もっと根本の仕組みから変えるべきなのだ、と。いま書いたように、このアイデアは基本的には正しい。ただし、これは、ある意味で理想系だ。充分な資金があり、企業体力があり、優秀な従業員がいるからできることでもある。理想主義者である私には馴染みやすい発想だけれど、当然、最初から理想通りにうまくいくわけではない。
その会社を辞めて数年が経った。この数年で、とにかくいろんなことがあった。会社を辞めて、ゲーム制作に専念し、しかし、それだけでは生計が立たないから、フリーランスでほかの仕事をしたりもした。本当に大変で、うまくいかないことばかりだった。まあ、うまくいかないのは当然だけれど、それにしても、この「アンチ改善活動」的な発想が、些か邪魔をしていたように思う。
理想を掲げることは悪くない。理想は大事だ。理想を掲げ、恥ずかしげもなく言えるのは、私の良いところだと思っている。けれど、理想だけではだめだった。うまくいかないたくさんのことを、なんとか乗り越えなければならない。それに費やす労力は、理想主義的には無駄だけれど、でも、やらなきゃ前に進めないのだ。そういうことを、何度も経験した。
その結果、今は、ささやかな改善活動に少しずつ着手している。たとえば、デスクの下の配線。足がぶつかって邪魔だったのを、コードを束ねてすっきりさせた。そんなことか、と思われるかもしれない。本当に、そんなことばかりだ。そんなことを、今までおろそかにしていたのだ。コードを束ねるために、テープでぐるぐる巻きにするのはスマートじゃないし、そもそもコードが不要なモニターを買えば良い、みたいなことを本気で考えていた。理想主義のようで、実は理想主義じゃない。コードの束ね方は、夢の実現にはほぼ無関係だ。そういうことを、ようやく理解し始めた。
それを理解できたのは、きっと、もっと純粋な「理想」に出会えたからだ。純粋で、あまりにも大きすぎる理想。大きな理想の前では、細かいことはどうでもいい。理想に少しでも近づくために、そんなものはとっとと片付けて仕舞えば良い。理想に辿り着くための道は、汚いよりかは綺麗なほうが良い。そう思うと、ささやかな改善活動も悪くはない。