この数年で人生が大きく変化した。良い意味でも悪い意味でも。いや、大局的に見れば、きわめて良い方向に向かっていると思う。それは、ほとんど運だ。運が良かったからこうなった、としか言いようがない。努力の割合が完全にゼロとは言い切れない。たくさんの時間をかけて、たくさんのアウトプットをした。ただ、結果的に得られた成果は、そのアウトプットの「量」には少なくとも比例していない。頑張っただけ報われる、なんてことはなかった。まあ、頑張ったぶんだけ、ほんの少しのご褒美はあったかもしれないけれど、全体から見ればやはり些細で、大きな流れは、自分でコントロールできるようなものではなかった。
考えてみれば当たり前だ。どれだけ誠実に、必死に生きていたとしても、明日、地震や津波で死ぬかもしれない。私たちは途方もない自然の中に生きている。社会というものが整備され過ぎたせいで、それを忘れがちだ。そもそも、生きていること自体、ものすごくラッキーだ。死にたいと思えることは、ある意味では、生きていることよりもさらに幸運といえるかもしれない。
科学とは、偶然やランダムネスを排除して、再現可能な理論を導き出す営みだ。科学がこれだけ発達した現代でも、私たちはにわか雨を回避することができない。大切な人の命を守ることができない。好きな人と付き合えるとは限らない。科学は万能ではない。もし万能なら、科学者など不要だ。科学者になるのだって、それこそ運とタイミングだ。厳しい世界などと言えるのは、世界をコントロール可能なものと見做しているからにほかならない。
科学の限界を知ることも、立派な科学的な営みだと思う。科学の限界を知ると、科学というものが、いかにこの世界の「ほんの一部分」でしかないかを思い知る。少なくとも、私たちの命は再現可能ではない。すべての出会いも、別れも、喜びも、悲しみも、再現可能ではない。すべては運とタイミングである。という命題は、科学の外側にあるけれど、真実でないとは限らない。
このエッセィを誰が読むかを、私はコントロールできない。それでも、あなたはこれを最後まで読んだのだ。笑ってしまいそうなくらい無力な作者にできることがあるとすれば、これくらいしか思いつかない。すべてのささやかな運命に感謝を。ありがとうございます。