人間ができていると感じる人がまわりには多い。挨拶をする、遅刻をしない、ネットに愚痴を書かない、など。素晴らしいことだと思う。
逆に、少しでも人間的に「悪」とされることをした途端、袋叩きにされるのがネットの常である。その結果だろうか、悪事や犯罪はもちろん、ちょっとした不満や愚痴、不安の表明でさえも、少なくとも自分の観測範囲ではほとんど見かけなくなった。
イラストレーターへのアドバイスとして「イラスト以外の余計なもの、特にネガティブな投稿をSNSに載せるな」という言葉をよく聞く。フォロワーはイラストを見たいのであって、愚痴など見たくないということだろう。
個人的な好みをいえば、そういう「負の側面」にはむしろ興味がある。そもそも、人間はネガティブな感情を切り離すことはできないはず。「ポジティブ思考」という言葉があるように、ポジティブは善、ネガティブは悪という風潮が根強い。
さらに言えば、人格者であることが必要以上に持て囃されているようにも感じる。「同じくらい上手いイラストレーターなら、性格の良い人に依頼が来る」という言葉もよく聞く。きわめて実力主義的な発想である。悪くはないけれど、やや短絡的な気もする。
というのも、今、この世界において最大の人格者はChatGPTだからだ。古今東西の異なる価値観を理解し、倫理的であることを何よりも重視する。ChatGPTよりもよくできた「人間」を私は知らない。
これはつまり、「人格者である」とはその程度でしかない、ということでもある。あらゆる文献を読み、倫理的であることを徹底すれば、最高クラスの人格者になれる。そこまでいかずとも、多少、相手の価値観を理解し、相手を慮る、それだけでそこそこの人格者になれる。マナーや礼儀と呼ばれるものだ。
こうした、いかにも「人間的なコミュニケーション」こそ、真っ先にAIに置き換えられるだろうという見方がある。私も同じ意見だ。AIはその仕組み上、当たり障りのないもの、万人受けしそうなものを生み出しやすい。ChatGPTにメールの文面を書いてもらったことがあるだろうか。きわめて人間的、ビジネス的なメールを書いてくれる。
メールやチャットのやり取りの大部分をAIが肩代わりする未来はすぐそこまで来ていると思う。「メールはAIに書かせるのがマナー」というジョークを見かけたけれど、おそらくジョークではなくなるだろう。
そうなったとき、今まで「人格者である」ことを武器にしてきた人は戸惑うかもしれない。コミュニケーションという武器を奪われた私はどうすればよいのか、と。
ぜひ、ありのままのあなたでいてほしいと思う。必要以上に自分をよく見せる必要はない。だめなところはだめでよいし、それを無理に表明する必要はないけれど、ネガティブな自分をありのままに受け入れることは結構難しいのだ。
これからの時代、表面的な、潤滑油的なコミュニケーションは不必要になる。人類の共通財産として、AIが肩代わりしてくれるようになる。自分も含め、コミュニケーションが苦手な人は多い。そういう人が生きやすい世界になるだろう。
そのとき、私にできることは「私であること」であり、あなたにできることは「あなたであること」だ(私「らしく」あること、あなた「らしく」あること、ではない)。
人格者であることは、やろうと思えばできなくはないけれど、私であることは私にしかできないし、あなたであることはあなたにしかできない。
人格者であるあなたを否定するつもりはない。でも、人格者でなかったとしてもあなたはあなたである。人格者ではないあなたを覗き見てみたいという気持ちは、人格者ではない私の邪な気持ちである。