自分の中の理想像を憧れの人や恋人に投影する、ということを昔からやりがちだった。覚えている一番古い記憶は、高校生の頃、付き合い始めた彼女から「あなたは私が好きなんじゃなくて、理想の恋人像を私に押し付けているだけだよ」と言われたこと。正確な文言は忘れた。ショックだったけれど、どうすれば良いのかはわからなかった。
大人になるにつれて、相手を神格化する癖を自覚できるようになった。とはいえ、それが具体的にどういけないのか、それをしないためにどうすれば良いのかは今でもよくわからない。ありのままに相手を見る、というのは結構難しいことだと思う。そもそも、ありのままの自分というものは幻想だと思っている。人間は絶え間なく変化している。見た目も、思考も、アイデンティティも。それを正しく把握することは不可能であり、したがって、他者を理解するときには、想像や誤解が必ず生じる。
人間は流動的な生き物だ。基本的には、どんなものにでもなることができる。創作をしているとそれがよくわかる。私が芝居や演劇に興味があるのも、そのような思想と無関係ではない。どんなものにでもなることができる状態、生物学的にいえば未分化の状態に興味があり、それは、言い換えればある種の万能性、つまり神性のようなものといえなくもない。
神格化されるのが迷惑だ、という感覚もいまいちわからない。アイドルなんかは、神格化されるのが仕事といっても過言ではないだろう。アイドルに限らず、ステージに立つアーティストと、それを囲むファンの構図は、宗教的な想像をするなというほうが無理がある。アイドルが舞台に立つのは、ありのままの自分を愛してほしいからではなく、キラキラ輝く姿を見てほしいからだろう。そこにあるのは第四の壁であり、非対称性であり、理解できなさである。
そう思うと、最初から理解を諦めていた節はあるのかもしれない。理解できないことと、理解しようとしないことは違う。それが彼女には嫌だったのかもしれない。とはいえ、相手を理解するだなんて、それこそ神でもできないと私は思っている。できるのは、想像までだ。相手の気持ちを想像すること。相手の痛みを想像すること。それが愛と呼ぶに値するのであれば、今ならもう少しだけ上手に誰かを愛することができるかもしれない。