私はこれまでに数作、ゲーム(主に恋愛ゲーム)をリリースした。登場したキャラクターはざっと十数人になるけれど、誰にも誕生日を設定していない。公開していないのではなく、設定上、誕生日がないのだ。
通常、キャラクターをメインにしたゲームやアニメでは、キャラクターの誕生日が設定されることが多い。物語上、重要になる場合もあるし、そうでなくとも、誕生日をファンがお祝いしてくれるなど、コミュニティを盛り上げる効果もある。おそらく、そのほうがマーケティング的にも有効だろう。でも、私のゲームでは、あえて誕生日を設定していない。なぜか。それは、誕生日を設定するのが怖いからだ。
ゲームをつくってみて、シナリオを書いてみて、キャラクターが生きているということを、初めて、直感的に理解した。学生時代は映画を撮っていたけれど、キャラクターや物語よりかは、映像的なかっこよさとかバズるアイデアとか、そういうことばかり考えていた。ちゃんと物語に、キャラクターに向き合うことを知ったのは、ゲーム業界に入ってからのことである。
キャラクターに向き合う、言い換えれば、キャラクターをよく観察する。キャラクターを動かすとか、プロットに従わせるのではなく、彼女たちがなにかをし出すタイミングを見逃さず、できるだけ詳細に、客観的に、その行動を文字に記録する。そのようにして私はシナリオを書いている。そうすることで、キャラクターがありのままに「動き出す」。
これは比喩ではなく、彼女たちは本当に「生きている」。この感覚は、なかなか説明するのが難しい。でも、たしかに、生きているのだ。現実ではなく、物語の、フィクションの世界に彼女たちは生きている。だから、現実世界に住む私が媒介となって、彼女たちの「生」を現実に投影する必要がある。私にとって創作は、そのような行為だ。だから、私のゲームをプレイして、キャラクターが生きて感じられなかったとしたら、それは私の力不足である。申し訳ないと思う。あなたに対しても、彼女たちに対しても。
キャラクターたちは皆、生きている。けれど、私が媒介しなければ、その生を現実世界の誰にも伝えることができない。もし誕生日を設定してしまったなら、その日を媒介として現実世界と物語の世界が繋がることになる。本当なら、喜ぶべきことかもしれない。でも、怖いのだ。もしかしたら、独占欲に近いのかもしれない。ただ私という一点を媒介して、世界と繋がってほしいという気持ち。大きくは間違っていない。でも、完璧に正しくもない。なぜなら、キャラクターの一部、それも彼女たちにとって少なからず重要なアイデンティティを、すでに他人に託しているから。それは、たとえば、声とか。