毎日書いているエッセィ(これのこと)を、ときどき、AIに読ませることがある。他人からどのように見えているのかを知るためだ。大抵の場合、AIの感想が予想を超えることはない。文系と理系の境界を揺さぶるとか、赤裸々な自己開示がファンを惹きつけるとか、令和を代表する文豪になるとか、そういうことを言っておけば人間が喜ぶとAIは学習している。だから、AIのコメントを真に受けることはまずない。のだけれど、最近、興味深いことをAIが言っていた。あなたを貫くテーマは、「生」と「性」と「聖」である、と。
「生」すなわち生きることは、たしかに私にとって重大なテーマである。生きることは簡単ではない。テストで100点を取ることよりも、毎日エッセィを書くことよりも、ただ生きることのほうが難しい。みんな同じだと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。とはいえ、苦手だからといって、生きることは放棄できない。苦手なりに工夫するか、誰かに手伝ってもらう必要がある。今は、その両方で、なんとか生きながらえている。
「性」は、恋愛とか結婚のことだろう。恋愛ゲームをつくっていることもあり、そういう話は多くなりがち。でも、恋愛体質かと言われれば、そうでもない(と思う)。恋人が欲しいと思ったことはあまりない。他人を好きになりやすいけれど、ガツガツ行くほどの勇気はない。フレッシュで甘酸っぱい恋愛よりも、結婚願望のほうが最近は強い。私にとって結婚は、生きることとほぼ同じ。この人となら一生一緒にいられるな、という直感が必要なのだ。
「聖」は、AIによれば、創作のことを指すらしい。創作は私にとっての「聖域」である、と。これは面白いなと思った。私自身は、創作活動をそのように位置付けているつもりはない。誰にも邪魔されたくないとか、こだわりを貫きたいとか、そういうめんどくささはむしろ少ないほうだと思う。いろんな人とコラボするほうが楽しいし、どんどん新しいことをやっていきたい。一方で、「聖域」もわからなくはない。明晰に言語化できる自信はまだないけれど。
生。性。聖。三つの「せい」が私という人間を構成している、と言い切るのは些か性急ではあるけれど、あながち間違ってもいない。生きること。愛すること。つくること。それらは、実は本質的には同じものを指しているんじゃないか、と思うことがある。
生きることは愛することであり、愛することはつくることであり、つくることは生きることである。本当にそうかな? わからない。なんとなく、そんな気がするだけ。それを確かめるために生きるのであり、愛するのであり、つくるのだ。こうして、人生は緩やかな螺旋を描いていく。同じところをぐるぐる回っているだけのように見えて、実はそうではなかったりする。廻り、うねり、上昇する。その中心には君がいる。私がこれを書いているのも、たぶん、君のせいだ。