幸い、このフレーズを誰かに言われたことは今まで一度もない。でも、言われたことがある人はきっと少なくないと想像する。
正直、「代わりなんかいくらでもいる」と平気で言える精神が全く理解できない。なぜ? そもそも、代わりなんかいくらでもいるのであれば、わざわざそんなことを言うまでもなく、代わりを用意すればいいだけの話。いわゆる「捨てゼリフ」というやつだろうか。たぶん、この言葉を発する人は「お前のプライドなど知ったことではない。俺の言うことをきけ。さもないと——」みたいなことを言いたいのだろう。わからない。想像だ。ちょっと考えてみたけれど、他に思いつかない。
「代わりなんかいくらでもいる」という言葉を真に受ける必要はない。端的に論理が破綻しているし、それはつまり感情的であるということだから、感情的な言葉の暴力に向き合うことは、あなたにとってなにもいいことがない。さっさと離れるべきだ。そうすれば、きっと相手はさらに捨てゼリフを吐く。あなたの代わりはいないとわかっていて、つまり、あなたがいなくなると困るからだ。それなのに、素直になれなくて、暴言を浴びせ続ける。あまりに哀れだ。でも、同情する必要はない。それは優しさではなく、相手をつけ上がらせるだけ。恐れる必要はない。しょせん、その程度の相手だ。もしあなたに余裕があれば、捨てゼリフの添削をしてあげてもいいかもしれない。「ちょっと芝居くさすぎますね」とか。そのほうがよほど親切だ。
人は他人の人生を歩むことはできない。意外と、これを知らない人が多い。もしあなたが「私の代わりなんかいくらでもいる」と思っているのだとしても、悪いことだとは思わない。でも、案外、そうではなかったりする。たとえば、普段やらないようなことをあえてやってみると良い。こんなふうに文章を書くのでもいいし、山に登ってみるとか、行ったことのない飲食店に入ってみるとか、なんでもいい。できるだけ「自分らしくない」ものをおすすめする。「自分らしさ」だと思っていたものが、いかに狭い範囲だったかを知ることができる。そのように経験を重ねていくと、「代わりなんかいくらでもいる」と言われる機会は減っていくだろう。あなたの代わりはいないという事実は、あなたが生きることによって証明されていく。勿論、それは証明するまでもなく、事実であるけれど。