私はあまり小説を読まないから、直木賞とか芥川賞とか、そういったものをほとんど知らない。『東京都同情塔』という小説がなにかの賞を獲ったことだけは知っている。映画は割と好きだけれど、やはり賞には興味がなく、『シン・ゴジラ』が日本アカデミー賞で作品賞を獲ったことくらいしか知らない。
文学賞は、作家の登竜門と言われているらしい。賞を獲れば、めでたくプロとしてデビューできる。と聞くが、賞を獲らずしてデビューしている人はそこそこいる。そこそこどころではないかもしれない。むしろ賞を獲らずにデビューしている人が多数派ではないか。私が賞に興味がないからそう見えるだけかも。森博嗣先生に至っては、賞に応募したわけでもないのに、デビュー作『すべてがFになる』でメフィスト賞を受賞した。賞とはなにか、考えさせられる。
文学賞に限らず、アカデミー賞でもなんでもいいけれど、賞を気にする人はほとんどいないと思う。映画の予告編には、なんとか賞受賞という文句がほぼ必ず載っている。漫才師の「はいどうも」みたいなものである。本も同じ。書店で平積みされている本の帯には、なんとか賞に加えて、有名人の推薦文が添えられている。作者の名前よりも、有名人の名前のほうが大きい。さすがに作者に失礼ではないかと思うけれど、出版社も必死なのだろう。
必死なのはわかるが、しかし、それで誰が喜ぶのか、という話である。推薦文を書く人には、多少のお金は入るだろう。宣伝費と考えれば安い。宣伝効果はよくわからない。賞も同じ。賞を獲ったという事実が読者にとって重要でない以上、それは安い宣伝費程度の効果しかないと思う。
文学賞が作家や読者のためになっているのかはよくわからない。けれど、小説がどんどん売れなくなっている事実だけを見れば、文学賞という「伝統」に固執するのをそろそろやめてもいいのではないか、と思わずにはいられない。
思うに、幻想を生み出す装置なのだろう。この賞を獲れば、この門をくぐりさえすれば、プロという華々しい世界が待っているのだ、と。商業作家は一生安泰、なんてことはないことくらい、少し調べればすぐにわかる。作家だけではやっていけないから、講師とか副業をやっている人は少なくない。むしろ、副業で作家をやっている人のほうが多いと思う。そういう現実から目を逸らさせ、甘い夢を見せ、若き卵をスクールやセミナーに通わせる。作家に限らず、あらゆる世界で目にする仕組みだ。
読者はそんなことには興味がない、という事実を、いい加減自覚すべきではないか。なにもかもが内輪ネタである。内輪で盛り上がり、そのまま沈もうとしている。自業自得としか言いようがない。誰もが小説を書いて公開できる時代だ。出版社に頼らずとも本を売ることはできる。もちろん、出版社にしかできないことはたくさんあると思う。それは、少なくとも、ネットがない時代の古めかしい伝統を繰り返すことではない。新たな作家の卵が、自発的に「商品」を書いてくれているのだ。それを活かさずに「本が売れない」と嘆いているように私には見える。
出版業界に限った話ではない。読者を、視聴者を、ユーザーを置き去りにした内輪ネタはいろんな世界にある。趣味でやる分には構わないけれど、そうでないのなら問題だろう。良い作品を求める人は世界中にたくさんいる。良い作品を届けることができるのは、出版社や、配給会社や、パブリッシャーの強みだろう。ならば、それを活かしてほしい。作家にとっても、読者にとっても幸せな方法がきっとあるはずだ。