私はいま、恋愛ゲームをつくっている。けれど、恋愛ゲームが取り立てて好きなわけではない。ジャンルでいえば、『ワイルド・スピード』のようなカーアクションのほうが好きだ。
「好きなことをやるべきだ」と言われることは多い。決して間違ってはいないと思うけれど、この「好き」という気持ちは、なかなか取り扱いが難しいんじゃないかと思う。
ラーメンが好きな人はとても多い。私も好きだ。でも、「毎日ラーメンを食べるべきだ」とか「ラーメン屋で起業すべきだ」とか「ラーメン系YouTuberになるべきだ」と思う、あるいは他人にアドバイスする人は少ないだろう。
これがとりわけ創作の話になると、「好き」をやたらと重視する傾向がある。もちろん、悪いことではないし、第三者がとやかく言う話でもない。好きと思えることに真っ直ぐ突き進む姿は美しい。
一方で、「好きなものをつくっているのに『いいね』が伸びない」みたいに悩む人は多いように見える。これは、少なくとも自分には「ラーメンが好きでラーメン屋を開いたのに、お客さんが来ない」と言っているように聞こえる。「ラーメンが好きだからラーメン屋を開く」という選択が、必ずしも幸せとは限らないように思われる。
私にはピンとこない話だけれど、「ゲームが好きだからゲーム業界に入りたい」人がそれなりにいるらしい。ゲームをつくるのが好きならそれでいいと思うが、ゲームをプレイするのが好きならば、ゲーム会社よりもむしろ「ファミ通」とかに行ったほうが幸せじゃないかと思う。
「生産者」か「消費者」か、という話をしているわけではない。もちろん、それも含まれるけれど、やはり「好き」という感情の取り扱いの難しさが非常に大きいように思う。
「好きなこと」もそうだし、さらにいえば「好きな人」を目の前にしたとき、冷静な自分を保てなくなる経験がきっと誰しもあると思う。純粋で尊かったはずの「好き」が乱れ、捻れ、一番傷つけたくなかった人を傷つけてしまう。「好き」が「嫌い」に変わることもある。それくらい、「好き」という気持ちは難しい。
「好き」を語るとき、それは「私の好きなもの」についての場合がほとんどだ。でも、たまには「好きな人の好きなもの」を想像してみるのも悪くはない。
好きな人の好きなものを好きになる。
好きな人が私の好きなものを好きになる。
何が幸せなのか、よくわからない。やっぱり「好き」は難しい。