1ヶ月ほど前からずっとそわそわしている。とあるオーディションのようなものが近く控えていて、その結果次第でこれからの人生が変わる可能性がある。本当に変わるのか、どれくらい変わるのかはわからない。きっと期待しすぎだと思う。期待しすぎるから、こうして不安になっている。期待しないほうがずっと生きやすい。期待せず、地道に努力を重ねることでしか夢が叶うことはない。
と、正論を書くことはできる。それでも、期待してしまうし、不安になる。期待してしまう原因として、些細な出来事が人生を左右する事例をすでに経験してしまったからだ。去年、ひょんなきっかけで研究職に就いた。いろんな偶然が重なって、専門と経験と待遇のいずれもが高い水準でマッチするポジションに恵まれた。まだ就職して1年も経たないけれど、すでにいろんな経験をさせてもらっている。今年はさらにたくさんのイベントが待ち受けている。本当にありがたい。
もしも面接で落とされていたら、今の私はなかった。その面接で受かるか否かが、私の人生を決定的に左右した。その結果をコントロールすることはできない。もちろん、受かる確率を高めることはできる。書類を丁寧に書くとか、大きな声で喋るとか。でも、それくらいしかできない。相手が私を受け入れるかどうかは、相手の手にかかっている。生殺与奪の権は、他人に握らせるほかにない。
つまり、ただ生きるくらいしかできることはない。絶望せず、自棄にならず、ただ歩み続けることしかできない。どれだけ歩いても、不安は消えない。歩いて行ける範囲など、世界の広さに比べればたかが知れている。どこへ辿り着いたとしても、そこには新たな不安が待っている。
いえることがあるとすれば、その道をあなたはたしかに歩いてきたのだということ。足跡が残っているかもしれないし、あるいは雨や風に消されたかもしれない。いずれにせよ、あなたが今ここにいるのは、ここまで歩いてきたからだ。その軌跡だけは、誰一人としてコントロールすることができない。コントロールできるのは、歩みを進める方向と、歩くかどうかの判断くらいだ。
と、このように他人を励ますのは、比較的得意なほうだと思う。同じことを自分にしてあげられないのはなぜだろう。きっと、足跡を振り返る癖がないからだと思う。どういう道を歩んできたのかということに興味がない。見つめているのは、ただ眼前に広がる大海原、あるいはフィヨルド。なぜフィヨルドか? 私はとにかく大きなものが好きらしい。大いなる自然に対峙したときの畏敬に近い感情。つまり、不安もむしろ大きいほうが良いのかな? 相手が大きければ大きいほど燃える。ふふ、楽しくなってきたじゃない。