尖ろう。

池田大輝
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公開:2025/4/12

「尖っている」と明確に言われたことを一度だけ覚えている。大学時代、研究室の先生に「きみは尖っているね」と面と向かって言われた。いま思うと、「尖っている」と言われて少しだけうれしい気持ちと、言うほど尖っているか?という気持ちがあったと思う。

大学は、東京工業大学(現東京科学大学)というところに通っていて、生物系の研究室に所属していた。バイオインフォマティクスと呼ばれる、遺伝子やDNAの解析をする分野だ。学生時代、私は映画の道を志していた。映画をやりたいのになぜ東工大で生物を学んでいたのかは私もわからない。たまたま、そうなってしまった。とはいえ、研究もそれなりに楽しく、特に、うちの研究室では解析のためにプログラミングを扱っていたから、元々コンピュータが好きだった私は、プログラミングを学ぶことでいろいろなことができるようになることが新鮮でうれしかった。卒業後は、大学院に進んだ。

映画と研究、どちらにも興味があった。が、問題は、それらが遠すぎること。これが映画じゃなくて音楽だったら、研究の合間の休日にやることもできたと思う。あるいは、今の時代なら、もっとミニマルにできただろう。しかし、当時の私は(今もだけれど)ハリウッド映画のような大作エンタメ志向で、とても研究の片手間にできるようなものではなかった。映画の片手間に研究、というのも難しいだろう。そんなわけで、相容れないふたつの世界に引き裂かれそうになっていた私は、映画を選んだ。たまたまちょうどいい映画のコンテストがあって、それに専念するために大学院を休学した。結局、コンテストはあと一歩届かずという結果で、大学院も中退した。

傍から見れば、こういう生き方はきっと「尖っている」のだろう。世界一周とかならまだしも、映画のコンテストのために休学とは思い切ったものだな、と我ながら思う。ただし、そこには少し誤解がある。

まず、大前提として、休学などしたくなかった。それなりに努力して大学院に入ったわけで、当然、お金もかかっている。辞めることは多くのものを失うことになる。だから、辞めずに済む方法を考えた。のだが、やはり問題は、映画があまりにも大掛かりなこと。基本的に、映画は片手間で撮れない。それに、ただでさえ東工大というアウェイな環境にいるのに、片手間でやっていては早稲田や慶應、法政などのライバルたちに絶対に追いつけないという焦りもあった。

あとは、東工大というのが、あまりにも異質すぎた。東工大出身の映画監督を私は知らない。いるのだろうか? そもそも、理系でさえ珍しい業界である。なぜよりによって東工大に入ってしまったのか、私も知らないし、他人には説明のしようがない。そんなわけだから、基本的には誰からも理解されることはなかった。そういう疎外感はいまも続いていて、だからこうしてエッセィを書いて、私のことを少しでも知ってほしいと思っている。

要するに、尖りたくて尖っていたわけではないのだ。私にとって異質な環境では、まわりから見れば私が異質である、というだけのこと。クリエイターとしては、そこまで尖っているほうではないと思う。東工大にいたからそう見えていただけだろう。私としては、できるだけ穏やかに、真っ当に、安全に生きたいと思っている。冗談ではない。

それなのに、なぜか、あらゆる環境で「なんだこいつは」という目で見られる。どんなコミュニティにも所属している感じがしない。疎外されているわけではないと思う。ただ、馴染めないのだ。これはもう、どうしようもない。というか、コミュニティに所属することが正義である、という道理はどこにもない。そういうプレッシャーをあらゆる場面で植え付けられるから、一人でいてはいけないと不安を煽られるのだ。ダイエットの広告と変わらない。

別に、尖っていればいいと思う。あえて迷惑をかけろとは言わないけれど、他人を気にせず、好きにやればいい。というか、生きている限り、誰かの迷惑にはなっているのだ。気にしても仕方がないだろう。まわりを気にしなくなれば、自分が尖っているかどうかなんてどうでも良くなる。尖りは相対的な概念に過ぎないのだ。

最後に、尖っていることのメリットをお伝えしよう。出る杭は打たれるというけれど、尖っていれば、ハンマーを破壊することだって不可能じゃない。尖ろう。それも、強く、しなやかに、尖ろう。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink