どうしようもなく死にたい夜がある。そのような夜に限って眠れない。眠れないからスマホを見る。そしてさらに死にたくなる。
スマホを見ないようにすると、今度は頭の中が希死念慮で溢れる。ひどく濁った洪水のように、頭の中を埋め尽くす。だからスマホを見てしまう。そうすれば、少なくとも、頭の中の濁流は消える。
それでも、死にたい気持ちは収まらない。濁流が止まるのは、仮の堤防を立てたからであって、それはじきに決壊する。決壊すると、そのダメージはさらに大きい。解決を先送りしたぶん、威力を増して襲い掛かってくる。
だから、どうしようもない死にたさについては、できるだけじっくりと観察してみるのが良いと思う。考えるのではない。なぜ死にたいのか、原因はなにか、誰が死ねば解決するのか、という思考は、死にたさを増幅させるだけだ。
そうではなく、ただ、じっくりと、観察するのだ。死にたさという、ぼんやりとした塊を両手にそっと掬ってみる。死にたさとは、意外とそれくらいのサイズだったりする。どのような色か、形か。動いているのか、匂いはするのか、温度はあるか。
このように観察すれば良い、という方法はない。死にたさは人によって全然違う。みんなつらいんだよ、という言葉が凶器でしかないことを、死にたいあなたはよく知っているはず。
そう、あなたの死にたさはあなただけのものだ。ほかの誰のものとも違う。誰もあなたの死にたさを理解できない。わかるよ、などと言える人は偽善者、であればまだ良いほうで、下手をすれば本当にあなたを殺しかねない。
凡庸な生というものが存在しないように、凡庸な死もまた存在しない。どの生も、死も、一回きりであり、したがって、他人のそれと比べても意味がない。三島由紀夫のように死んだとしても、少なくとも、全然かっこよくない。
死ぬことは結構難しい。簡単に死ねるのなら、こんなエッセィなど読まず、とっくに死んでいるだろう。たぶん、生きることと同じくらいには難しい。じゃあ、もう少し生きてみよう、とは言わない。
死は、ぼんやりと思っている以上に複雑で、あいまいで、難しい。多くの偉大な哲学者たちが、死というものに立ち向かってきた。数千年の哲学の地層に、今夜、あなたは立ち向かうのだ。ヒントはあるが、答えはない。死にたい夜をやり過ごすには、この問題はあまりにも難しい。明日も、明後日も、あなたは問い続けるだろう。それが、生きるということだ。