仕事とは、基本的にはやりたくないものであり、誰かがやりたくないことをその人の代わりにやる対価としてお金をいただく行為である。やりがいとか、自己実現とか、社会貢献とか、そういう側面をあえて否定はしないけれど、「では、お金がもらえなくてもそれをやるのですか?」と問われて「はい」と答える人がどれだけいるだろうか。
今の世界では、お金がなければ生きてくことは難しい。だから、生きるためにみんな仕事をする。ただし、どんな仕事でもできるわけではない。誰でも漫画家になれるわけではないし、誰でもグーグルに入れるわけではない。コンビニや飲食店のアルバイトは、なぜか誰でもできる仕事として語られることが多いようだけれど、アルバイトをしたことのない人の偏見、あるいは生存バイアスとしか思えない。
必ずしもやりたいことを仕事にできないケースも多いだろう。むしろそれが自然である。特にやりたいわけではないけれど、できなくはない、という絶妙なラインを探って仕事を決める。今は転職が当たり前になったから、合わない仕事はいつでも辞めることができる。それでも、転職を繰り返すことは長い目で見ればリスクになるから、続けられそうな仕事、言い換えれば「持続可能な仕事」を早めに見つけるに越したことはない。
ほとんどの人が、そのような「持続可能な仕事」を見つけていることが不思議でならないし、正直、羨ましい。新卒で入った会社に何年も勤めている人は、明らかにラッキーである。新卒で入る会社がどんな会社かなんて、普通、わからない。ホワイト企業だったとしても、配属される部署や上司によって働く環境は全然変わる。そのような変化に耐えうるだけの適応力を元々持っていたのだとしたら、それはさらに幸運なことだ。きっと、どんな企業に転職してもやっていけるのだろう。
専門学校に通って、特定の業界を目指す人にも同じことがいえる。学生の時点で行きたい業界が決まっていることは、やはりラッキーだ。やりたいことが決まっていることよりも、そのための入口があらかじめ用意されていることのほうが幸運である。どんなにつらくてもその世界で生きていく、と若いうちに覚悟を決められることは、ほとんど才能に近い。きっと、そのような人は、なにがあっても逞しく生きていけるのだと思う。
私は、そのどちらでもなかった。どんな環境でも生きていけるだけの適応力があるわけでも、どんなにつらくても辞めないと言い切れるだけの天職を見つけたわけでもなかった。いわゆるホワイト企業に勤めていたこともあった。そこまでハードな仕事ではないし、悪い言い方をすれば、適当に仕事をしているフリさえすれば、余裕で生きていける環境である。それでも、そのような場所に1日8時間いることがつらかった。水の中で息をしているみたいだった。水中で呼吸できる他の社員が、同じ生き物だとは思えなかった。似たような息苦しさを、いくつもの職場で経験した。知人に相談したりもした。仕事はそういうものだよと言われた。そう、仕事とはそういうものだ。楽しさややりがいなど求めていない。価値を提供し、お金をいただく。それはわかっている。けれど、1日8時間、息を止めることは、私にはどうしてもできなかった。
持続可能な仕事を見つけることは、私にとっては簡単ではない。できそうなことをしながら、なんとか生きている。できれば、もう少し楽に生きたい。そのためには、せめて、呼吸くらいはできる仕事が望ましい。
学生時代は映画監督を目指していたのだけれど、ここ数年は、なぜか恋愛ゲームをつくっている。辞めたいと思ったことは一度もないし、気がつけば、手が勝手に次回作をつくり始めている。いずれ映画化もできたらいいな、と、根拠のない楽観が囁く。
やれやれ、困ったものである。とはいえ、私は人間だ。せいぜい、1分くらいしか息を止められない、非力な、ただの人間。できることなど、ほとんどない。これをしろ、と神に脅迫されているようなものである。ああ神様、なぜ水中で呼吸する能力をわたくしにお恵みにならなかったのでしょうか? え? 答えはもう書いてある? えっと……。