私にはこれといった趣味がないので、趣味が合う人はこの世には存在しない。Q.E.D.
冗談はさておき、趣味が合うなら気が合うはずだ、という風潮にはいまいち納得できない。数少ない趣味の中でもいちばん趣味らしい趣味が映画で、映画を観るたびに感想をツイートしているけれど、映画好きの仲間は増える気配がない。次に趣味といえそうな旅行についても、旅行好きの人と出会った試しがない。一応、ゲームクリエイターなので、ゲームの話題になることはそこそこ多い。それでも、私はゲームを全くやらないので、好きなゲームについて語り合うようなこともない。
じゃあ誰となんの話をしているのか? そもそも、ほとんど人と会わない。ネットでも他人と交流することは滅多にない。こうして一方的に発信しているだけである。反応してもらえたら、喜んでお返事する。それも多くはないのだけれど。
趣味が合う人よりも、思想が合う人のほうが一緒にいて気が楽だ。あるいは、一般的にはこれを「趣味が合う」と呼ぶのかもしれない。思想が合うというのは、同じ考え方を共有していることに限らない。考え方が違っていても、不思議と噛み合うこともある。こうしてエッセィを書いているのは、思想が合う人を選別する行為ともいえる。
思想とは、私の場合は特に、ひとことで言い表せるものではない。それは複雑であることを必ずしも意味しない。シンプルで美しいものほど、それを表す言葉がなかったりする。というのは、たとえば私の思想の一断片である。思想を嫌う人も多いらしい。思想が強いという言葉は、ほとんど揶揄として使われる。何も考えずに機械みたいに生きたいと思う人が多いことは私にとって驚きだけれど、それもまたひとつの思想であり、とやかく言うつもりはない。ただ、合わないだろうな、と思うだけである。
強いていえば、めんどくさい人とは気が合うと思う。めんどくさいとは、こだわりが強いことではない。こだわりとは、目の前のごく狭い範囲の、よく見知った対象に固執することであって、それは世界の広さから目を背ける姿勢である。めんどくささはその逆で、世界の広さを放ってはおけない状態を指す。黙ってルールに従っておけば良いものを、なぜそうなっているのか、気にせずにはいられない。世界のすべてに関心があり、世界と無関係ではいられず、したがって、目の前の小さな仕事は遅々として終わらない。とんでもなく不器用で、鈍臭くて、いつも遠くを見ている人。分裂する自己を手懐けられず、それらを拾い集めては落っことしている人。自分と世界の区別ができず、他人と世界の区別もできず、趣味などという頼りない糸では誰とも繋がることができない人。そういう人となら、少しは気が合うかもしれない。