「憑依型」という言葉は通常、演者の存在を観客が忘れてしまうくらいにキャラクターが「憑依する」タイプの役者に対して用いられる。具体的な例を挙げるのは難しいけれど、ウッチャンナンチャンの内村光良さんはその代表例だろう。本人よりもキャラクターが前面に出ている。
私は新海誠監督のファンであるけれど、新海さんは憑依型の真逆として語られることが多いと思う。つまり、新海誠という作者がキャラクターよりも前面に出ているということ。キャラクター軽視は新海作品でしばしば批判されるところであるし、「新海誠っぽい」という表現が当たり前に使われていることからも、妥当な見方ではあるだろう。しかし、私は新海誠ほど「憑依型」という言葉が似合う作家はいないと思っている。
特に初期の新海作品においては、「キャラクターが背景から浮いている」という批判がある。『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』のどれかを観れば、その意味がわかると思う。緻密に描き込まれた背景に比べると、キャラクターの見た目はかなりあっさりしている。個人的には気にならないし、むしろ好きなのだけれど、気になる人は少なくないらしい。キャラクターの心情描写についても同様の批判がある。キャラクターのセリフや行動が軽薄で、全く共感できない、と。圧倒的な世界観を表現するために用意された人形のように感じられるのかもしれない。
このようなキャラクター軽視は、一見すると「憑依型」とは対極にある姿勢に見える。しかし、私にとってみれば新海誠はたしかに「憑依型作家」であり、それは、キャラクターではなく、「世界そのもの」が憑依しているから、と私は考える。
雲。草木。星空。街並み。キャラクターの「背景」に繊細に描かれる様々なオブジェクトは新海誠の代名詞である。あらゆるものが現実よりも美しく、瑞々しく、緻密に描かれる。けれど、背景が緻密に描かれることは、アニメ映画においては珍しくない。最近はテレビアニメであっても、背景はかなり細かい。新海監督の影響もあるだろうけれど、それ以前のアニメ映画も、背景は充分に細かい。押井守監督や細田守監督の背景は、新海映画よりもむしろ細かい印象がある。背景の細かさは、新海誠の専売特許ではない。
では、なぜ新海誠監督の背景は、取り立てて美しく見えるのか。それは、世界が、新海誠という作家に憑依しているからだと私は思う。キャラクターが役者に憑依するのとほとんど同じような仕方で。
雲も、草木も、星空も、街並みも。光も、空気も、言い表せない恋心さえも。映画の世界に存在する全てが、新海作品においては「キャラクター」なのだ。意思を持って動いているわけではない。人間のように話すわけでもない。ただ、そこにあって、世界の一部となっている。それは、特別なことではない。私たちの住む世界も同じように、人間と、人間以外のたくさんのものでできている。人間は、人間に興味がある。だから、ほとんどの物語は人間を描く。新海作品も例外ではない。でも、人間以外のものに向ける眼差しが、新海作品では際立っている。全てが世界の構成要素であり、それらが集まってできた世界が徹底的に描かれる。複雑に絡み合った世界そのものが、新海誠という作家に憑依しているのだ。
その意味では、新海誠監督は霊媒師やシャーマンのようでもある。『すずめの戸締まり』は、それが顕著に現れた作品だと思う。この世界ではないどこか、全く別の世界を、新海誠という結節点を媒介して、私たちは目撃している。世界を生み出すというよりも、世界と世界を結ぶ。それが新海誠という作家の、どこかオカルトめいた魅力であるように私には見える。