これまでにいくつかの会社で働く中で、びっくりしたことがある。それは「やりたいことが特にない人が、この世界にはものすごく多い」ということだ。
もちろん、ほとんどの人は何かしらの趣味を持っている。週末に野球を観に行く、旅行に行く、お菓子を作る。仕事をしながら、それとは別に趣味を楽しむ。そのように生きている人が多数派を占めているらしい。
私は、高校生くらいからずっと映画を撮りたかった。というか撮っていた。カメラを回し、編集し、それが一つの物語になるのが面白くて、ひたすら映画ばかりつくっていた。紆余曲折を経て、今は恋愛ゲームをつくっているけれど、やりたいこと自体はそんなに変わっていない。むしろ、昔に比べれば目標が抽象化されて、やりたいこと、つくりたいものがクリアになりつつある。もちろん、恋愛ゲームをつくることがゴールではない。とにかく、つくりたいものは昔から山ほどあって、その実現のために一歩ずつ歩いてきた。そんな人生だった。
自分が何をやりたいのか、悩んだことは一度もない。むしろ、やりたいことを実現するハードルが高すぎるがゆえに、現実との整合性をとるのに苦労していた。「もっと現実を見ろ」と言われ続けた。きっと、理想論ばかり掲げている、役に立たない奴だと思われてきたことだろう。間違ってはいない。でも、そんなふうに終わるのは嫌だから、今は毎日のようにゲーム制作を進めている。これまでの人生も、そうやって理想に向かって一歩ずつ歩んできたつもりだ。
理想に近づくための手段、あるいは妥協案としていくつかの会社で仕事をした。それなりに楽しかった仕事もあれば、虚無そのものみたいな仕事もあった(後者のほうが圧倒的に多いが)。でも、みんなも自分と同じように、やりたいことを実現するために、現実的な選択肢としてこの会社で働くことを決めたのだろうなと思っていた。でも、違った。
「こんなことをやりたいんです」という話をすると、必ず驚かれた。夢を持っていてすごいねなどと言われた。たしかに夢は持っているかもしれないけれど、それがすごいと思ったことはない。むしろ、大した夢もないのに淡々と仕事を続けられることのほうが自分にはすごいと思えた。お金のため、家族のため。それはわかる。わかるが、そうは言っても、この国には職業選択の自由があるわけで。
人生を賭けてまでやりたいことがある人は少数派なのだと、いくつかの社会経験を経て悟った。その事実に打ちのめされそうになったこともある。なぜかといえば、それは「やりたいことがある人はうちには不要です」と暗に言われ続けてきたからだ。別に、責めるつもりはない。実際、特にやりたいことがない人のほうが組織にはマッチする傾向にあると思う。そういう合理的な仕組みのおかげで世界は回っている。ただ、どこに行っても、そこが自分の居場所だとは感じられない。「あなたは不要です」と言われているような気がする。そんな経験を何度も繰り返してきた。
やりたいことがある人は社会に必要とされていない。これはきっと、正しい。もちろん、「CGデザイナーになりたい」のように具体的な職種で言い表されるものは除く。ここで言いたいのは、「庭に鉄道を敷設したい」みたいな、そういうやつである。
じゃあ、どうすればいいか。「ただやればいい」のだ。必要とされていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。ただ、やる。法律に違反するとかでなければ、誰にも止めることはできない。やって、満足して、終わり。これ以上の幸せはきっとないと思う。やりたいことをやる。素敵な人生だ。
私は今まさに、そんな人生を送ろうとしている。自分でシナリオを書き、イラストを描き、声優さんに声を当ててもらい、作曲家の方がつくった曲を聴き、ゲームを完成させようとしている。イラストなどは正直めんどくさいけれど、でも、全体としては楽しい。もちろん、ここがゴールではない。次の「やりたいこと」へ向かうステップでもある。が、今この瞬間だけを切り出しても、そこそこ楽しいといえる。
もちろん、大変なことはたくさんある。けれど、楽しさでいえば、今までの人生のどの瞬間よりも楽しい。この先にもっと楽しいことが待っていると思うと、多少の苦労すらも楽しめるような気がしてくる。
私がつくっているゲームは、社会的に意義があるとか、すごく大金を稼ぐとか、そういう素晴らしいものではない。ビジネスとしての側面もあるから、ある程度はユーザーのことを考えてはいるけれど、そのために自分の「楽しい」を犠牲にしているわけではない。ほぼ、自己満足である。
まあ、それでも、池田の活動を応援してくれる人はいる。本当にありがたいことだと思う。そういう人に対しては、少しくらい自分を犠牲にしてもいいかなと思える。社会に必要とされずとも、「誰か」が必要としてくれるなら、それで充分である。