異性愛はNGで、百合はOK、みたいな空気がある。たとえば、女性アイドルは恋愛禁止が暗黙の前提になっているようだけれど、なぜか「女の子とデートに行った」とは平気で書く。デートが本気かどうかはともかく、女性同士の恋愛は問題にはならないらしい。アニメや映画でも、百合はかなり自然に受け入れられている感じがする。恋愛というものの生々しさを無害化できるからだろうか。異性愛やBLは、その点、生々しさが多少は強い。実際には、女性同士のカップルでも、生々しい関係がそれなりにあると思うけれど、いわゆる「百合」では、そうした側面が意図的に透明化されているように思う。
人間が肉体を有する限り、恋愛の生々しさから逃れることはできない。ここのところ、人間が人間であるがゆえの生々しさというものが、過剰に忌避されているように思えてならない。恋愛リアリティショーやマッチングアプリは、それを端的に表している。他人の恋愛を覗き見るだけなら痛みを感じずに済むし、AIがマッチしてくれた相手となら大きな失敗をせずに付き合うことができる。生々しく、不都合な、人間的な問題から目を背け、ヴァーチャルで、潔癖で、理想的な恋愛を楽しめる時代になった。
人間という存在が、抽象化されている。身体的な特徴に依らず、すべての人が人間らしく生きられる社会に、この世界はなりつつある。Windowsがどんなパソコンでも動くのに似ている。ハードウェアの差異をOSが吸収してくれる。パソコンを使う人は、パソコンのスペックを気にせず、快適に使うことができる。
人間も似ている。どんな人でも、好きな職業に就けるようになった。性別や身体的特徴で差別することは許されない。多くの仕事は、誰がやっても同じアウトプットになるように標準化されている。インターネットは誰もが好きに使うことができる。芸能人も一般人も、ソーシャルメディアではただのいちアカウントに過ぎない。人間という存在を抽象化することによって、少なくとも仮想的な世界では、人類はみな平等になった。
では、そのような世界で、人々は幸せになっただろうか? 私たちの生きるこの世界が、人類の最終到達地点だろうか? たぶん、そうではないだろう。仮想的な世界では誰もが平等なはずなのに、いま、この瞬間、少なくない人が理不尽に殺されている。平和なはずの日本でさえも、惨たらしい格差は消えない。それどころか、理想だったはずのネットでさえも、妬みや攻撃や悲しみに溢れている。
人間らしくあることは、必ずしも素晴らしいことではない。人間が人間である限り、逃れられない枷がある。抗えない欲望がある。致命的なハードウェアの欠陥がある。どれだけ無視しようとしても、無視できないのだ。その悲しみを、痛みを、やりきれなさを、背負って生きなければならない。透明化され、理想化された人間を演じるのには限界がある。それを否定するわけじゃない。ただ、完全な無の境地なんて、厳しい鍛錬を積んだ聖職者がやっと辿り着ける境地だろう。私みたいな平凡な人間には、恋をすることくらい、許してもらえないだろうか。