先日、とある方と初めてお会いした。私の作品や日々のエッセィ(これのこと)を読んでくださっているらしく、いろいろと楽しく会話をさせていただいた。その際、「もっと怖い人だと思っていた」とボソッと言われた。理由は特に尋ねていない。
ぱっと思い当たる理由は、この文章の「である調」である。これは、まあ、丁寧語で書くと冗長になるから、簡素にしているのが理由である。書こうと思えば、丁寧にも書けるのである。丁寧に書こうとしていないから、こうなっているだけなのである。
あとは、エッセィに書いてある教訓めいたものが、もしかしたら厳しく聞こえることがあるのかも。そもそも、ここに書いているのは、ほぼ自戒みたいなものだ。自分に言い聞かせるように書いているだけ。誰かにどうしろなんて言うつもりは全くない。そのような立場でもない。
思いつくのはこれくらいかな。私は、自分を怖い人だと思ったことはない。どのあたりが怖いのか、想像もつかない。他人のこともあまり怖いと思わない。ホラー映画は怖い。ホラー映画を嬉々として、あるいはなんの感情も抱かずに観る人は、ある意味もっと怖い。
ちなみに、ホラー映画はガチで苦手である。少なくとも一人では観れる気がしない。いや、でも、『ミッドサマー』も『ボーはおそれている』も結局一人で観た。ああ、なんてことだ。観ているではないか。苦手なホラー映画を、嬉々として、観てしまっているではないか。なぜだ。なぜ人はホラー映画を観てしまうのだ。絶対後悔するとわかっているのに。なぜだ。なぜなのだ。もう、ホラー映画は絶対に観ない。『女神の継承』なんか、パッケージからして嫌な予感しかしない。観たら絶対に後悔する。
でも、ホラー映画を撮るのは楽しそうだなって思う。死ぬほど怖いやつを一度くらいは撮ってみたい。そして、死ぬ。死因:自分で撮った「死ぬほど怖いホラー映画」を観賞して死亡。なかなか面白いのではないか。さて、誰と一緒に観ようかな。