自分のやりたいことをやるべきか、それともユーザーが求めているものをつくるべきか。
あらゆる創作活動の場で耳にする言葉である。マーケティング的な言い方をすれば、プロダクトアウトかマーケットインか、といえるだろうか。たぶん、どちらが正解ということもないし、様々な要因に応じて柔軟に考えたほうがいいと思う。
個人的には、あまり悩むことはない。のだが、もう少し上手いやり方がないかな、とは思う。そこで、今日は、アイドルの生き様について少し考えてみたい。
アイドルになりたい人は、歌を歌いたい、踊りたい、可愛い衣装を着たい、有名になりたい、など、何かしらの目標があると思う。そのためにレッスンし、曲を出し、ライブをする。
それは、まさにファンが求めていることでもある。歌を聴きたい、ダンスを見たい、可愛い姿を拝みたい。アイドルの何かに魅せられて、推しになる。その過程を楽しんでいるともいえそうだ。
どのアイドルも、最初からアイドルなわけではない。デビューした時点では未熟で、満足のいかないことも多いと思う。それこそ、目指したい姿とやらなきゃいけないことのギャップにも苦しむと思う。
でも、アイドルが他のクリエイターあるいは表現者と大きく異なるのは、アイドル自身のそうした「成長の物語」にこそ、ファンにとってかけがえのない魅力が詰まっているという点だと思う。
困難に立ち向かい、挑戦し、時には敗れ、それでも諦めず、一歩ずつ高みを目指していく。そんなアイドルを、ファンは応援する。ファンの応援のおかけで、アイドルはまた一歩進むことができる。
おそらく、こうした「成長の物語」の過程で、アイドルがやりたいこととファンが求めるもののギャップが小さくなっていくのだと思う。成熟したアイドルとファンの間に一種の信頼関係が見られるのもこうした理由からだと推測する。
もちろん、道の途中でギャップを埋めることができず、アイドルを諦める場合もあると思う。でも、必ずしも悲観するものではない。アイドルからアーティストや俳優への転身は、前向きな選択の結果だといえるだろう。
アイドルに限らず、どんな人にもその人なりの「成長の物語」がある。別に成長しなくてもいい。生きてきた以上、何らかの「軌跡」を刻みつけてきたはずだ。でも、多くの人はアイドルのようには生きていない。では、「アイドルである」とはどういうことなのか。
それは、「ほかでもない、その人である」ということだと思う。たとえば、佐々木彩夏というアイドルは、ほかでもない佐々木彩夏である。佐々木彩夏を推すファンは、ほかでもない佐々木彩夏を推すだけの理由を持っているはずだ。仮に「顔が可愛い」が理由だとしても、それに該当する人は他にもいるはずで、やはりほかでもない佐々木彩夏を推す理由がどこかにあると思われる。
なぜ佐々木彩夏を推すのか、という問いに、佐々木彩夏の名前を出さずに答えることはたぶん、できない。「顔が可愛い」「ダンスが上手い」と理由を列挙したところで、それらを満たす人は他にもいるから、やはり不十分である。絶対アイドル佐々木彩夏はほかでもない佐々木彩夏だから、ファンは佐々木彩夏を応援するのだ。なぜ佐々木彩夏なのか?答えは「だって あーりんなんだもーん☆」である。
アイドルであるとは、応援してくれる人=ファンにとって「交換不可能な存在」であり続けることなのかもしれない。
これは想像だけれど、アイドルはそのような「交換不可能性」という価値をファンに提供するために、文字通り「人生のすべて」をアイドル活動に捧げているのだと思う。アイドルを「演じる」ことはできない。ほかならぬその人自身が、生き様そのものが「アイドル」なんだと思う。
素晴らしいクリエイターも、その意味では限りなくアイドルに近いといえる。新海誠は「雲を細かく描くから」新海誠なのではない。新海誠にしかつくれないものをつくるから新海誠なのだ。私は新海さんのファンだけれど、もし新海さんが他のアニメ監督でもつくれそうなものをつくったら、その時点でファンをやめると思う。新海誠を、新海誠という名前以外で表現することはできない。その交換不可能性こそが、アイドルの、そして至高のクリエイターの条件なのだと思う。
アイドルとして生きることは簡単ではないと思う。簡単にアイドルになることはきっと、できない。
でも、応援してくれる誰か=ファンにとって、交換不可能な存在=アイドルになれたとしたら、アイドルとして生きることそれ自体もまた、交換不可能な唯一無二の価値を持つのだと思う。生きることで誰かを、そして自分自身を幸せにすることができる。そんなふうに、アイドルみたいに生きることができたらと、ふと思った。