ここ数年、休んでいない。休日という概念がすっかり消えた。2021年に会社を辞めて、ゲーム制作に専念するようになった。その頃から、完全な休日というものを1日も経験していない。
個人的には、このライフスタイルに満足している。やりたいこと、やらなければならないことは山のようにあり、休んでいる場合ではないのだ。とはいえ、働き続けていると、身体や精神が破綻してしまう。だから毎日、少しずつ休むようにしている。睡眠は必須。徹夜すればなんとかなるという姿勢は持続可能性に欠ける。スマートウォッチで毎晩、睡眠を記録しているし、マットレスも良いものを使っている。椅子も高いのを買った。
とにかく、人生は長期戦であるから、長い目でコンスタントに調子を維持したほうが良いと思う。今日の負債を明日に繰り越さない。その日の疲労はその日に回復する。そうすれば、わざわざ休みの日を設けずとも、調子を維持できる。その意味では、5日働いて2日休むワークライフスタイルは、休日にやや期待しすぎている感がある。どれだけハードに働いても、2日休めば充分だろう、という本音が見え隠れしている。人間の身体は、過労による疲労を5日間もバッファできないと思われるし、それを2日で取り除くのはもっとできないと思う。
疲労は目に見えない。目に見えないものは存在しないという思い込みが、とりわけ日本では強い気がする。「見える化」という意味不明な言葉に、その信仰が端的に表れている。見えさえすればなんでも良いと言わんばかりに。疲労という「現実」を見ずに、休日という「仮想」を見ている。見えないものがたくさんあることを受け入れない限り、都合の良いものばかり見てしまう。「見える化」は、幻想を生むイリュージョンにほかならない。
オフという概念が私にはない。すべてを忘れてパーッと楽しむことができない。わざわざそんなことをする意味がわからない。生きている限り、いろんなものを観察することになるし、それが新たな発想に繋がったりする。その繋がり、コネクションをあえて断ち切るのはなぜなのか。目には見えない無数の網目でこの世界はできている。そういうものから、私たちは逃れられない。そう、生きている限り、休みなどないのだ。休日とは、残酷な現実から目を逸らさせるために用意された制度だ。気休めの休日を有難がっている場合ではない。生きている限り、生きなければならない。死んでいるみたいに、生きてはいけない。