作家とはどのような人を指すのだろうか。小説家? 漫画家? 漫画家が含まれるということは、文筆業に限定されないのだろう。画家も立派な作家のイメージがある。最近は、ハンドメイド作家だとかゲーム作家といった言葉も聞く。
私はずっと映画を撮っていて、学生の頃は映画監督になりたかったけれど、そのような仕事に就くことは叶わず、ここ数年はゲームをつくっている。ビジュアルノベルと呼ばれるジャンルで、その名のとおり、絵がついた小説みたいなものだ。2024年は、商業作品を含め、3本のゲームシナリオを書いた。という点だけを見ると、私も作家を名乗って良さそうな気がしてくる。実際、ほんの少し前までは、自分を作家として売り込むことに必死だった。
ここ1ヶ月くらいで、それが少し変わってきた。別に、無理に作家を名乗らなくていいんじゃないかと思うようになった。きっと、生活が安定してきたからだと思う。必死に生きる必要がなくなった。それまでは、自分という存在を社会に認めてもらわなければならなかった。そのために、作家という肩書が最短ルートだと思っていた。
好きなように文章を書き、思うように絵を描ける時代である。仕事として創作をしたか、という点を気にしなければ、誰だって作家になることができる。あるいは、つくったものをネットやコミケで売れば、一人くらいは買ってくれたりする。その時点で立派な仕事であり、つまり、仕事かどうかなんて些細な観点に過ぎない。本を全然出さない職業作家だってたくさんいる。
そんな世界で、作家を名乗る意味はなんだろう。それはきっと、覚悟であり、宣言だ。作家として生きていくことは簡単じゃない。書いたものを読んでくれる人がいることは、幸せなことだ。読んだ人が幸せになってくれたら、それはもっと幸せなことだ。当たり前の幸せが当たり前に手に入る世界で、当たり前ではない幸せに手を伸ばす。禁断の果実に指を触れてしまったが最後、二度と元には戻れない。
と、大袈裟に書いてみたけれど、たぶん私は、禁断の果実をもう何個も食べている。映画もゲームもいくつもつくった。かなり無茶なこともした。ただ、それが当たり前すぎて、なんというか、「禁断の果実」感が薄いのだ。もう少し、こう、禁断の果実を食べた人っぽさがほしい。その「演出」を入れるタイミングを窺っている、といったところか。演出力は、作家の条件とまでは言えないけれど、あったほうが有利だろう。ド派手な演出には時間とお金がどうしてもかかる。ハリウッド映画ばかり観て育った人間である。さもありなん。