覚悟が決まった人は美しい

池田大輝
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公開:2025/8/5

覚悟は目に見えない。高らかに宣言することも、書面にサインすることも、あくまで形式的な儀式に過ぎない。ただその人の中にあって、決して揺るがないもの、それが覚悟だ。

覚悟というものを、つい最近まで知らなかった。もちろん、覚悟という言葉はわかる。けれど、それが実体としてなにを指すのかよくわからなかった。覚悟が足りない、と叱られたことは何度かある。甘ったれているとか、やる気がないとか、そういう意味に受け取っていた。背水の陣、みたいな意味でもよく使われる。退路を断ち、強制的に選択肢を狭めることを覚悟と呼ぶ人は多いらしい。たしかに、そのような「覚悟」は他人に伝わりやすいし、同情も誘いやすいだろう。あの人は覚悟が決まっている、と。

けれど、それはパフォーマンスに過ぎない。退路を断つことは、見方を変えれば、楽な状況に自分を追い込んでいるともいえる。選択肢が減ると、自ずと残りの中から選ばなければならない。選択肢がひとつしかなければ、なにも考える必要がない。なにも考えず、用意された道を行けば良い。それをかっこいいと思うかどうかは人に依るかもしれないけれど、個人的には、あまりかっこいいとは思えない。思考することを、放棄しているからだ。

考えることは面倒だ。考えず、悩まず、いつも晴れやかな気持ちで過ごせたら、と思う人は多いと思う。私もそうだ。考えたくないことばかり考えなければならない。悩みは尽きないし、全然、うまくいかない。あらゆる悩みを一撃で解決する銀の弾丸があるはずだと、つい最近まで信じていた。退路を断ち、すべてを投げ捨て、俺にはこれしかないんだと叫ぶ。そのように戯画化された「覚悟」に憧れていた。

でも、そんなものはこの世界にはない。あるとすれば、それは「運」と呼ばれるものだ。「覚悟」と混同されやすい。運は、自分の力ではどうすることもできない。コントロールできない、超自然的な力。神の力と言っても良い。

覚悟は違う。運が外側にあらわれるものだとすれば、覚悟は内側に湧き出るものだ。しんしんと、泉のように、その人の内側を浸す。外からは決して観測できない。覚悟があるかどうかは、その人しか知り得ない。いや、本人はむしろ気づかないかもしれない。体内を巡る血の脈流を、普段、意識することはない。その存在を知るのは、身体が傷ついたときだ。凛と流れる血筋の赤と、疼くような痛みの両方を、全身でたしかに感じるとき、その人の中に血液が、覚悟があったことを知るのだ。

覚悟が決まった人は美しい。それは、目に見える美しさではない。ただそこにある美しさだ。あるいは、強さと言い換えても良い。見ることも、たしかめることもできない。透明なガラスがそこにあることを、誰一人知ることはない。世界の重さに耐えきれず、ひとすじのひびが入ったとき、初めて触れることができるのだ。

@radish2951
恋愛ゲーム作家。毎日21時頃にエッセィを更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink