敬語からタメ口に切り替えるタイミングがわからない

池田大輝
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公開:2025/2/11

新しく知り合った人とは当然、敬語で話す。が、そこから関係を深めていく中で、いつ、どのようにして敬語からタメ口に切り替えれば良いのか、さっぱりわからなくなった。子供の頃は当然のようにできていたことが、大人になってできなくなってしまった。

明らかに年下かつ、フラットな関係の場合(例:サンミュージックの養成所の同期)は、タメ口に切り替えやすい。敬語のほうが違和感があるし、それに、同じ空間を共有しているというのは大きい。授業で毎週会うので、自然と関係性が深まりやすい。ネタ見せの授業終わりにガストでだらだらと喋ったりもした。いかにも芸人っぽくて、憧れていた小さな夢がひとつ叶った。

でも、それくらいか。大人になってから会う人はほとんどが仕事関係であるから、タメ口に切り替えることがそもそもおかしいのかもしれない。いや、そんなことはないか。仕事関係であっても、同じチームとか、近しいメンバーとはタメ口で話しても特に問題はない。そのような関係にある人がほとんどいないから、自ずとタメ口をきく機会が失われているのかも。

個人的に、敬語とタメ口の間には大きな壁を感じる。それは、話すときも、話しかけられるときも。どちらが良いとか悪いとかいう話ではない。タメ口で話しかけられてイラっとする場合もなくはない。関係性に依る。

人間関係とは、ほとんど幻のようなものだ。結婚するのでもない限り、人と人の間にある関係は「ごっこ遊び」に過ぎない。雇用関係も結婚と同じく契約ではあるけれど、日本の飲み会には「無礼講」という例外があって、そこでは上司と部下の関係、あるいはクライアントと作業者の関係が一時的に消失する。せいぜい、それくらいのものなのだ。

敬語からタメ口への切り替えは、その意味では、幻想を破壊する行為といえる。敬語とは、言い換えれば、「私たちはごっこ遊びをしています」という意思表示である。その札を掲げている間は、社会的な関係がその場に生じている「ことになっている」から、ルールを守らなければならない。それが幻想であることはみんな、わかっている。だから、それを強制的に破壊し、リセットする制度として「無礼講」が存在する。

あらゆるものが幻想の上に成り立っている。この世界のほとんど全てといっても良い。人間は物理的な実体だけではない、ということくらい、誰でも理解している。それが肥大して、社会性という、きわめて現実的な幻想を生み出した。幻想が、現実になった。

タメ口とは、「現実」に還る手段といっても良い。幻想の殻を打ち破り、いま、目の前にいる「あなた」と対峙するということ。タメ口で会話しているとき、そこにいるのは、上司でも部下でも取引先でもなく、「あなた」なのだ。

とはいえ、幻想を打ち砕くのは簡単ではない。幻想は、社会は、敬語は、多くの人間が安定して生きていくために生まれたものだ。簡単に言えば「鎧」である。鎧を脱ぎ捨てて、裸でぶつかり合う。タメ口で話せる関係とは、それくらいアグレッシブで生々しいものである、という結論はやや乱暴かな。まあ、この文章もタメ口だし、大目に見てほしい。読者であるあなたを信頼していなければこのようには書けない。いつも応援してくれてありがとう。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink