国語が本当に苦手だった。文章を読むことがそもそも苦手だし、書くのはもっと苦手。特に小説なんかは、どう読めば良いのか全くわからなかった。漢字とか文法はパズルみたいなものだから、そこでなんとか点数を稼いでいた。
私は生粋の理系だ。高校から理系で、大学も理系大学。今も、一応、生命系の研究職に就いている。数学や理科は、世間一般から見れば得意なほうなのだろう。とはいえ、大学以降の数学は、高校までのそれとは全然違う。たとえば、高校では「ベクトルは矢印みたいなもの」と習ったりするけれど、大学では、ベクトルはもっと厳密に定義される。ベクトルとは、ベクトル空間の元のことである。もちろん、ベクトル空間もちゃんと定義されている。ということくらいまでは、かろうじて理解しているけれど、あとは全然わからない。線形代数と解析学の基礎は、ほとんど忘れてしまった。
だから、自分が理系である自覚は、あまりない。かといって、文系でもない。文系・理系という区別は、しばしば「数学が好きか嫌いか」くらいの意味で使われたりする。あまり建設的な議論とは思えない。
私としては、理系というアイデンティティよりも、「国語が苦手」という自意識のほうが、どちらかといえば強い。苦手というか、なにをやっているのかさっぱりだった。文章を読むことの楽しさが理解できなかった。おそらく、数学が苦手な文系の方々の気持ちも、これに近いのだろうと想像する。
だから、日々こうしてエッセィを書いたり、ゲームシナリオを書いたりしているけれど、文章が得意とか、上手いという自覚は一切ない。「読みやすい」と言われることはときどきあって、それは、まあ、そうかな、と思う。読みやすいように書いているからだ。
私がいくら気持ちを込めて、あるいは、技巧的に文章を書こうとしてみても、学生時代に国語が得意だった人の足元にも及ばないだろうな、という気がしている。敢えて言えば、実家が裕福な人への感情に近いかもしれない。見えている景色が、見てきた景色が全然違う。いや、そもそも、世界を見る目が、レンズが違う。
同じ景色を見ようとしても、同じ感情を伝えようとしても、同じ言葉には絶対にならない。上手いとか、面白いとか、そういうことの遥か手前。違う世界に生きている、と言いたいところだけれど、そんなことはなくて、その人はたしかに同じ世界、同じ場所に生きていて、だいたい同じものを見ている。それなのに、本当に、全然、違うのだ。
私からあなたがどんな風に見えているのか、拙いけれど、書いてみた。あなたからはどう見えているのか、いつか書いたら、読ませてください。